プラトンは『国家』の中で、数学と問答法(dialectique)の鍛錬が真理に近づくための必要不可欠な条件になるとした。その上で、支配的な「意見」に従うのを止め、自身の思考が「関わる」真理だけを信用する人だけが、幸福に至ることを示している。数学が前提となる問答法は思考の理性的で論理的な運動であり、それは物理に還元できるものを超えたという意味における「形而上学」と言うことができるので、数学、論理学、幸福は形而上学の視点に基づいているのである。そして、幸福とは真理に近づくことの疑いのない兆候なので、その道行とそれを完璧に振り返ることは幸福の形而上学を構成しているということができるだろう。
スピノザは『エチカ』の中で、もし数学ななかったとしたら、人間という動物はいつまでも無知、すなわち「十全な観念」に全く開かれない状態のままであっただろうと主張している。「十全な観念」に至るためには、第2、第3のやり方が必要になる。第1のやり方は、感覚によるもので、理性の関与がないもの、意見と言われるものによる。これでは「十全な観念」には到達できない。第2の方法は論理を巻き込んだ実証の厳しい道である。そして第3の方法は、推論のすべての段階を一点に集中するように――それは直ちに捕捉する「知的直観」こと――すなわち、神あるいは全体に集中することである。スピノザは、「十全な観念」の完璧な知に至った人間の状態を「徳」と呼んでいる。なぜなら、彼は知の第3のやり方でそこに至ることができたからである。そして、幸福(スピノザは、より強い至福"beatitudo"という言葉を使っている)とは真の思考を行使することである。換言すれば、幸福とは真なるものの感情である。改めて言うと、数学と論理学と知的直観が幸福の形而上学を構成しているのである。どんなテーマを扱うにせよ、哲学が幸福の形而上学でないとすれば、やる価値はないだろう。
この小冊子の目的は、「意見」に抗し、何らかの真理のために考えることが、真の生活への最短の道であり、そこに至れば比類ない幸福を感じることを納得されることである。
第1章「哲学と哲学の欲求」では、次のようなことが議論されていた。哲学的欲求とは思考における革命の欲求であり、それは「満足」という幸福に似たものと区別された真の幸福を目指している。真の哲学は抽象的な行いではない。プラトン以来哲学は、世界の不正、そして世界と人間の生の悲惨な状態に抗して立ち上がる。それを議論の権利を守りながら行い、最終的に幸福の偽物と真の幸福を分ける新しい論理を提案することである。
哲学の根本的な欲求は、普遍を考え実現することである。なぜなら、他のすべての人間が共有できないもの、普遍的でない幸福は真の幸福ではないからである。詩人のマラルメ(1842-1898)が「すべての思考はサイコロを振るような一か八かの仕事である」と言ったように、この思考には危険な賭けの要素があるのである。このように、普遍性に向かう哲学を特徴付ける欲求には「反抗」「論理」「普遍」「危険」という4つの次元がある。我々の現代世界は、次の理由からこの4つの次元に強力なネガティブな圧力をかけているとバディウは考えている。
1)我々の社会はすでに自由な世界であると教えられ、より良い世界を望む理由がなくなっているので、反抗には不適当になっている。
2)我々の社会では、コミュニケーションは非論理的で一貫性を欠き、記憶に残らない一瞬のショーを提供している。我々の世界は一貫性を原則とする思考に対して強い圧力を加えている。
3)この世界で有効な普遍性は金に還元され、同時に、専門化と断片化(哲学の対極)が進んでいるため、哲学が言うところの普遍性は抑えつけられている。
4)この世界は確実な計算が求められるため、賭けとか偶然に任せた決定は不適切になっている。しかし、真の幸福は計算できないところにある。
以上が、真の生活や幸福という概念を、消費社会における満足という見せかけのものに変えている。哲学がこれらの問題を受けて立つことができるだろうか。この問いに答えるために、世界の哲学的状況を徹底的に単純化してみよう。そうすると、3つの主要な流れが見えてくる。
1つは、ドイツロマン主義に遡る現象学、解釈学の流れで、現代における中心的な名前は、ハイデッガー(1889-1976)とハイデッガーの弟子ガダマー(1900-2002)である。
第2は、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)、カルナップ(1891-1970)とウィーン学団を起源とする分析哲学の流れで、今日の英米の大学哲学を支配している。
第3は、ポストモダンの流れで、ジャック・デリダ(1930-2004)やジャン・フランソワ・リオタール(1924-1998)に結び付けられる限りでは、おそらくフランスで最もアクティブだった。
ここで興味深いのは、それぞれの流れが、哲学の欲求と実世界における創造的効果をどのように認識していたのか、つまり、真の幸福を齎す真の生活とは何かということである。
解釈学の流れは、存在と思考の意味の解読――最初は明白でなかった意味を明らかにすること――を目的とした。この場合の対立は、閉じているか開いているかである。この流れの思考における革命的欲求は、明るくすること。そして真の幸福とは、開かれたものの主観的な像である。
分析哲学の流れは、発言の文法的、論理的分析により、意味のある発言とないものの境界を厳密に決める。この場合の対立は、規則に従っているのか、いないのかである。思考における革命的欲求は、意味の民主主義的共有で、その場合の真の幸福は、民主主義の感情である。
そして、ポストモダンの流れは、今受け入れられている自明の事柄を脱構築することを目的としている。意味の問題自体を別のやり方で並び替えなければならないことを示すために、19世紀以前の大きな物語(歴史的主体、進歩、革命、人間性という観念など)を解消し、言語の還元不能な多数性を示すことである。ポストモダンの思考の目的は、全体性を脱構築することである。この流れの革命的欲求は、生の新しい形を発明することで、真の幸福はその形を享受することである。
ここで、これら3つの流れに共通する特徴について見ておきたい。まず、ネガティブな方だが、これらの流れが形而上学の終わりを表明していることである。それは、少なくともハイデッガーの言う古典的な意味での哲学そのものの終わりを意味している。「真理の探究」という古典的な定義の下に構成された真理という理想は、意味の多数性という観念に置き換わったのである。
ポジティブな共通点は言語の重要性で、その傾向にある現代哲学は以下の2つの公理を支持している。
1)真理の形而上学は不可能になった。
2)言語は思考の中心的な場である。なぜなら、そこに意味の問題がかかっているからである。
バディウの立場は、この2つの公理には大きな危機があるというもの。現代世界が哲学の欲求に及ぼすプレッシャーを前にして、哲学は自身の欲求を維持できない。つまり、すべての革命的徳を失い、それによって真の生活すなわち幸福の動機を満足という原理だけのために捨てることになるのである。もし真理という範疇を捨て去れば、哲学は商品の循環、マスメディアの非論理性の奴隷になっている存在の挑戦を受けて立つことができなくなるだろう。この状態に抗するには、循環の原理の中断が求められるが、それは無条件の停止によってしか成し得ないと認めることである。その戦略は共産主義の観念である。
現代世界の4つの障害(商品、コミュニケーション、金という抽象概念、安全への執着)対して哲学的欲求の4つの次元(反抗、論理、普遍、賭け)を維持するためには、3つの哲学的流れを超えなければならない。これらの流れは、現状に適応しているところがある。バディウの立場は、これらの枠組みを断ち、デカルト(1596-1650)のように決然と何かを始めるスタイルを見つけることである。ここで、2つの方向性を示したい。
第1は、言語は重要ではあるが、思考の絶対的地平ではないこと。哲学の思考の構成が直ちに言語規則に依存しないこと。そして、言語の普遍的伝達可能性を復活させることである。
第2は、言説における定点を樹立することを哲学の役割とすること。バディウの立場は、言葉はどうでもよいのだが、古い「真理」という言葉を再び取り上げること。我々の世界は速さと一貫性の欠如で特徴付けられているが、これを中断し、定点を確立することがこれまで以上に哲学に求められている。形而上学の復活ではなく、哲学自体の再定義あるいは再編成である。
これらの条件の下、哲学の重要な使命は、思考の速度を遅くして自分自身の時間を確立することである。現代において、哲学は切り刻まれ、断片化し、速く流れる現代の時間の虜になり、世界のペースに追いつくことができず疲弊している。哲学の使命は、調査と理論構築にゆっくりとした時間を掛ける思考を確立することである。これが今日の哲学に要求される指導原理である。自分自身の時間を支配すること。これこそ、幸福の条件ではなかったのか。すべての真の幸福は、時間からの解放なのである。
(つづく)
幸福について「意識の3層理論」から見た記事を書いてみました。参考までに以下に貼り付けておきます。
「意識の3層構造」から考える幸福(2022.10.7)
● アラン・バディウ氏が言わんとするところは、矢倉先生が日頃、仰っていることと重なり合うもので、憧れをもって理解することができました。さて実戦となると、甚だ日常と世俗にまみれて時間の奴隷となっている身だなぁ、と嘆いています。ところで今季NHKでは、フランスの刑事ドラマを放映しています。登場人物の女性が論理的(じゃないと思考、行動できない)、パズルが好き(幾何学、数学的思考が得意)、自閉症なので一般的世俗的考え方にとらわれが無い、という設定の彼女が難事件を解決するのです。おやおや、娯楽ドラマなのにアラン氏が言っていた哲学に必要な要素が人物造形に落とし込まれているぞ、と講義を受けながら、私は違うことを考えていました。通俗的なお話ですみません。また次回の開催を期待しております。
● アラン・バディウという哲学者の思想を矢倉英隆先生の講座にて学ぶことが出来たことは大変に私にとって嬉い出会い出来事でした。正直な所、世界を巻き込んだコロナのパンデミックやロシアによるウクライナへの侵攻が戦争になり、世界の人々を不安や精神的疲弊と危機感への渦に巻き込み、一体哲学は何の役に立つのか?と疑問に思っていたからなのです。そこで、幸福にはまがい物があるということ、真の幸福とは何か? 今や古典的な哲学は終わりを迎えているということ。エゴと無知の主体性ではなく、思考を緩めるということ、自身の時間を確立すること、自分の時間を自分自身で支配するということ、自身の解放、開かれた人間であること・・・ 年齢を経て、これらのことに大変共感出来ると感じました。それが真の幸福なのだと。言語の重要性も言っていますよね? 自分自身の幸福を確立したいと思いますが、私自身にはまだエゴの部分が残っているようにも思えます。ただ、絵を描いたり、シナリオを創作したり、植物の観察研究をしているときは私自身にとって幸せを感じる時間なのです。しかし、自分の幸福を犠牲にして、大きな支配や大きな権力と戦う人々は人間として素晴らしいと思いますし、自分だけの密かな幸福で、社会の問題の傍観者でいて良いのか? という疑問もあります。
● カフェの開催ありがとうございました。今回は、読み通しもできていませんでしたが、そんな中でも、メタフィジックを調べたところ、フィジック(物理学)の後 という意味がありました。幸せのためには、数学、論理修辞が必要だと書いてあった時点で、面喰いましたが、考えていくうちに、それらは、リベラルアーツ7つを構成するものであり、それらの広い知識=教養がまず必要であり、その上で、常に世界を理解しようとする姿勢が必要なのかなと、自分にはまず思われました。リベラルアーツについても調べられておらず、これからよく追っていきたいです。幸せとは、何かがよく解ったと思えたり、何かと一体感を味わったりなども含まれるでしょうか。
● ありがとうございました。過去のトルストイの回(カフェフィロPAWL)を見せていただき、感謝しております。
● Alain Badiou の “Derechef, mathématiques et logique composent avec l’intuition intellectuelle ce qu’on peut parfaitement appeler une métaphysique du bonheur.” とはまさに、科学の思考方法と合致していると考えました。すなわち、ある思想の根本的な仮定を公理として定め、命題を論理的に検証する、さらに未解決の問題を解決するためには知的直観が伴うこと、これが形而上学的な幸福を示すというのは、まさに科学者が人間の歴史の中で科学を求めてきたことの証ではないかと思います。現在の哲学の潮流についての分析も見事だと思います。また、それらが現在の諸問題に対応できなくなっている、というのも言われてみればそうなのかもしれません。既存の哲学手法が現在の問題を考えるのに困難であった時、人類は旧思想の不一致を嘆きながらも、新しい思想を創造することで文化の『創造的進化』を遂げてきました。現在でも、それが不可能だとは思いません。産みの苦しみはありますが、『よく生きる』ことを継続することによって “Achsenzeit” が到来することも夢ではないと思っています。
湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。
ご紹介ありがとうございました。
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