7-PAWL 「トルストイ」


第7回カフェフィロPAWLのご案内

 
ポスター
 
2018年6月8日(金)18:30-20:30
 
トルストイの『人生論』から生き方を考える
 
今回はロシアの文豪トルストイの『人生論』を手掛かりに、我々の生き方を考えます。本は岩波文庫、新潮文庫、角川文庫などで手に入ります。そのタイトルは『生命論』と訳してもよい内容を含んでおり、本来は生命を扱うべきだとトルストイは考えている科学に対する批判、そして科学の成果から考えられるあるべき生き方が問題にされています。このテーマはまさに PAWL の対象としているものと重なるものです。いつものように最初に講師が問題点を提示した後で、自由に議論を展開していただければ幸いです。

恵比寿カルフール B会議室
 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1


(2018年3月10日)

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会のまとめ

第7回カフェフィロPAWL、終わる (2018年6月8日)

 今回はトルストイの『人生論』(1887)を読み、人間の生き方について考えることにした。このテクストには二つのエピグラフがある。一つはパスカルの「人間は考える葦である」の部分から以下の部分を含むところが引用されている。
「われわれの尊厳はすべて思惟にある。われわれが立ち上がらなければならないのは、ここからであって、空間や時間からではない。空間と時間はわれわれには満たすことのできないものである。だから、正しく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある」を含むところが引用されている。(パスカル 『パンセ』、原二郎訳)
 もう一つはカントの『実践理性批判』の結論から、我々が思念を重ねることにより心を満たすことになる「わたしの上なる星をちりばめた空」と「わたしの内なる道徳的法則」について語っているところである。第一のものは、外的な感性界から始めてその範囲を拡張し、そこを超えた世界や体系の全体的空間、また無際限な時間に達する。また第二のものは、わたしの 「自己」、人格性に始まり、悟性だけが捉えることができる真実の無限性のある可想界において存在するわたしを明らかに示す、とある。
 パスカルは、空間と時間を占める目に見え、手に触れることができる世界ではなく、人間は時空間を超えて広がる思惟の世界を充実させなければならないと言っている。カントの言葉も、感性界から始めて感性ではなく悟性だけが把握できるやはり時空間を超えた可想界に至り、そこに存在する自己を探究しなければならないというもので、両者ともに感覚で捉えられる世界を超えて思惟する世界を充実させる重要性を説いている。トルストイの考え方の基本もそこにある。
 人生論という言葉を頭に最初にこの本を読んだ時、冒頭から意表を突かれたような気分になったものである。まえがきには科学に対する批判が書かれていたからだろう。英語やフランス語のように、ロシア語でも生命と人生が同一の言葉で表現されているのだろうか。生命を扱う科学が人間の生やそこにおける善悪とは関係のない細胞における問題をテーマにしているといって批判している。トルストイは、人生の目的は幸福で、それは悪の状態から善を目指すことによって達成されると考えている。生命についての哲学的な問い掛けが実験室から離れていく時代を迎えていたことを考えるとトルストイの批判は当然ではあるが、現在から見るとそれを生物学などの科学に求めるのは少し無理があるとも言えるだろう。この点については、議論の中で科学者から同様の指摘があった。
 人間は幸福を追求しているが、それは「自分の」という制限が付いている。しかし人生を歩む中で、他の人間も生物も同じであることに気付き、その達成は非常に難しいと感じるようになる。そして、病気や老化などを経験すると、本来の目的だった幸福も生命自体も危ういものであるという根本的矛盾を抱えていることを悟り、そうではないものを求めるようになるという。古代からの思想家・哲学者はこの矛盾を乗り越えて幸福に至る道を説いたが、偽善者(パリサイ)や学者はその道を人々から覆い隠したとトルストイは見ている。
 学者たちは人間を誕生から死に至る動物的存在に他ならないという「粗野で原始的な考え」を主張し、孔子、仏陀、老子、ストア派、キリストなどの考えを認めない。そのため、指導者も含め、多くの人間が動物的生活のみを送ってきたとしている。トルストイによると、人間が抱えている矛盾は、自己を抑制し、他者に配慮することによって最終的に幸福が巡ってくるという逆説的な方法で解決される。我々の日常を構成するのは、選択による行動の連続だが、学者たちの教えからはその指針を得ることはできず、しばしば社会の習慣に従う惰性によって死までの時間を過ごすことになる。
 このような間違った考えに理性的意識が気付き、個人的な幸福などあり得ないと考えて動物的生活によっては満たされない要求をするようになった時初めて、人間の生命が誕生するとしている。理性的意識の目覚めと動物的自我の否定とは軌を一にしており、動物的自我を如何に理性の法則に従わせるかが問題になる。しかし、学者たちが動物的存在としての人間をどれだけ研究してもこの法則には至らないだろう。人間の生活自体は時間と空間の中にあるが、理性に従った幸福への希求は時間と空間を超える生命力である。そして、生命力により高みに上ることこそが我々を幸福な人生に導くのだが、多くがそこからの光景に恐れをなし、降りようとするのである。動物的自我の幸福の中に人間の幸福はあると思っているのである。誤った科学は幸福というような哲学的概念を排除し、大衆の誤解に歩調を合わせているとトルストイは批判している。
 わたしが興味を持ったのは、生命の永遠に関するトルストイの考えである。彼は言う。
ーー我々の根本はとうの昔に死んだ人々の生命から成り立ち、己の動物的自我を理性に従わせ、愛の力を発揮すれば、人は誰でも肉体の消滅後にも他の人のうちに生きることができるーー 
ーー人間の活動範囲がどんなに狭くとも、その人が他人の幸福のために自我を捨てて生きるならば、その生活の中で外界との新しい関係に入っており、そこには死というものはなく、そのような関係を作ることこそ万人にとっての人生の目的なのであるーー
 トルストイの考えをわたしなりに解釈すれば、次のようになるだろうか。人間としての真の生活は、動物的な自己の幸福を優先的に求めるところにはなく、その動物的な自我を否定することなく理性に従わせるように生きることを決めた時に始まる。それができた時、己の中にある高みに登ろうとする生命力が自己の境界を超えて浸み出すように外に働きかけるようになる。高い理性的意識に向かおうとする生命力は時間と空間を超えたところにあるが、その作用は時空間に存在する人間を含めた他のものに及んでいる。それは時空間を超える意識のレベルで行われていると考えられるが、人間という存在との新たな関係がそこに生まれている。そしてそれこそが、我々に幸福と永遠の生を齎すものなのではないだろうか。

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(2018年6月19日)






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