12-PAWL 『免疫学者のパリ心景』を読む vol. 1



第12回カフェフィロ PAWL のお知らせ

ポスター


日時: 2025年3月6日(木)18:00~20:30


テーマ:免疫学者のパリ心景』を読む vol. 1

     ――なぜフランスで哲学だったのか――


ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)

ゲスト: 矢倉英隆


会場: 恵比寿カルフール B会議室



参加費: 一般:1,500円、学生:500円

(コーヒー/紅茶が付きます)


カフェの内容

 

 今回は、参加者からの提案を受けて『免疫学者のパリ心景』(医歯薬出版、2022)を読みながら、哲学あるいは生き方について考えるカフェとすることにいたしました。開催に当たって、本書の編集者である医歯薬出版の岩永勇二氏に企画とファシリテーターをお願いしました。参加希望の方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。 

矢倉英隆


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『免疫学者のパリ心景』を読む vol. 1

――なぜフランスで哲学だったのか


「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭い (rendez-vous) だけだ」

――本書巻頭エピグラフより


 科学と哲学、西洋と東洋、フランス語と日本語…。その両者を往還する明晰な思考から紡ぎだされる『免疫学者のパリ心景』を読んでいると、自分の頭のなかの澱がゆっくりとけて、とても静かで、みずみずしい世界へと誘われる心地よさを感じます。

 このたび贅沢にも著者である矢倉先生に朗読をお願いし、内容の再確認だけにとどまらずに、著者の「声と身体」を通した生きた読書体験となることを期待して、この会を企画させていただきました。

 初回は、留学の契機となったご経験と、出会った哲学者を述べた箇所の朗読を聴いた後、当日参加される方が感じたインスピレーションをもとに、全員で意見交換ができれば幸いです.

 どのような会になるかは、もちろん始まってみないと誰にも分かりませんが、「オープン」で「インタラクティブ」なトークセッションとなることを期待します。

 ところで書物を読むとは、印刷された活字を読み、著者の思考をなぞるばかりでなく、書物の魂とのその都度の出遭い、コミュニケーションの体験ともなりうるのではないでしょうか。

 今宵のこの読み直し、語り直しの体験が本書との予想もしていなかったような、思いがけない “約束された出遭い” となることを願って――。


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【朗読予定ページ】


第1章 なぜフランスで哲学だったのか

 ● フランス語との遭遇(pp. 4-6)

 ● 抱えていた実存的問い(pp. 6-10)

 ● 刻印を残した二人の哲学者: ピエール・アドーとマルセル・コンシュ(pp. 24-33)


第2章 この旅で出会った哲学者とその哲学

 ● ハイデッガー、あるいは死に向かう生物としての人間(pp. 67-73)

 ● アリストテレスの「エネルゲイア」とジュリアン・バーバーの「時間」(pp. 82-87)

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ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版) 



会のまとめ




第12回を迎えたカフェフィロPAWLは、これまでとは異なる趣向の会となった。拙著『免疫学者のパリ心景――新しい「知のエティック」と求めて』の朗読会で、企画は本書の編集者である岩永勇二氏(医歯薬出版)にお願いした。テーマは「なぜフランスで哲学だったのか」となった。

冒頭編集者から、本書の成立過程(タイトルの選定や表紙ができる過程)が紹介された。タイトルは、著者がアフィニティを感じているという九鬼周造(1888-1941)の詩集『巴里心景』(1942)から採られた。表紙は、デザイナーの原条令子氏にお願いし、編集者との話し合いで本の内容を「詩」と規定して最終案をまとめたとのことであった。素晴らしい表紙に仕上がっている。それから、法然院にある九鬼周造之墓詣でのお話があった。そこには西田幾多郎の揮毫による以下の言葉が刻まれていたようだ。
ゲーテの歌 寸心
見はるかす山ゝの頂
梢には風も動かす鳥も鳴かす
まてしはしやかて汝も休らはん
今回は詩の朗読会とするとの判断で、室内を暗くして読書灯の灯りだけという不思議な雰囲気で行われた。まず、第1章「なぜフランスで哲学だったのか」の第1節「フランス語との遭遇」と第2節「抱えていた実存的問い」が読まれた。そこで語られていたのは、2001年春の花粉症の季節に、30年ほど前にニューヨークで買ったフランス語のカセットのことを思い出したことから、今に繋がるすべてが動き出したということであった。そこから始まったフランス語やフランス文化との付き合いの中で感じていたのは、それまでのアメリカ文化あるいは功利主義的思考とは一線を画す新しいものの見方と、後にそうだと知ることになるアリストテレス(384-322 BC)の「エネルゲイア」であった。

会では触れなかったが、この流れは、以前からわたしの中にある「病気には意味がある」というフォルミュールを再確認するものであった。つまり、わたしが花粉症患者でなかったとしたならば、フランス文化に目覚めることもなければ、フランスで哲学ということもなかったと思われるからである。わたしにとっての花粉症は、健康な中では難しかったフランス語やフランスの哲学を発見するためにあったということになるのである。

このセクションで話題になっていたことを思い出してみたい。一つはエネルゲイアに関するもので、普通この状態を感じるのは難しいのではないかという質問であった。その通りで、仕事をしている人の日常においては、常に先の目標に向かって歩まざるを得なくなっているので常に満たされない状態にあるためだと思われる。そこから自由にならなければ、エネルゲイアを感じることはできないだろう。偶然にも、本日この問題についてブログに書いたので、こちらを参照していただければ幸いである。

それから、この文章を聞いている(読んでいる)と、内容よりは著者の魂が滲み出ているように感じられ、心が落ち着くという感想があった。それはおそらく時間の感じ方が仕事をしている人とは異なり、コンシュが言うところの「果てしない時間」に近い状態にいるため、「縮小された時間」にある日常から見ると自由に感じられるからではないかと想像している。

科学の世界から思索の世界に向かう切っ掛けとなったのは、自分が跡形もなく消え去ることを明確に意識したからだが、それはいつだったのかという質問があった。それは退職数年前のことで、自分の意志とは関係なく物理的に遮断されることがこの世界にあることを知ったところから、自らの存在に思考が及んだためであった。そこには科学という営みに限界を感じたことが関係していたのかという質問もあったが、わたしの場合、科学についてそこまで深い省察はされていなかった。それ以上に、この生を終える時にどのような状態にいるのが満足を与えるのかという一点がその後を決めることになった。そして、モーリス・ブランショ(1907-2003)との対峙により(本書 p. 9-10)、自らが重要だと思う問題に向き合って生きることこそ、その存在が持っている生命の創造性の発露に導くものだという悟りに至ったのである。

次に、第2章「この旅で出会った哲学者とその哲学」の第3節「アリストテレスの『エネルゲイア』」の朗読に入った。その内容は上で紹介されているので、ここでは省略したい。ただこのセッションでは、以前にわたしが語ったという人生の見方について、岩永氏から紹介があった。それは次のようなもので、驚いたという。人生において仕事をしている間は、ある意味で舞台裏にいるような、準備期間のようなもので、いわゆる仕事が終わってからが本番である。つまり、仕事をしている間のことだけで人間を評価すべきではなく、生きている全期間を通して人間を見なければならない。そのためには、人生におけるエネルギー配分を考えておかなければならない、とまで言っていたようである。

最後に、第1章の第4節「刻印を残した二人の哲学者:ピエール・アドーとマルセル・コンシュ」の朗読が行われた。アドーに関しては第1回から第5回までのベルクソンカフェにおいて、またコンシュについては第11回のベルクソンカフェでも取り上げているので参照していただければ幸いである。この二人の哲学者は、体系の確立を求める哲学ではなく、生き方としての哲学を求めた。そこにわたしは共振し、その考えがわたしを解放した忘れがたい哲学者となっている。

議論の中で、コンシュの形而上学とわたしの考えとの関連についての質問があった。科学の領域にいたため、科学と対極にある思考として形而上学があるのではないかと思っており、興味を持っていた。そこでコンシュの形而上学についての考え――現実の全体についての真理を見出そうとする試みであり、それは哲学者によって異なることを認める――に触れ、科学のやり方――領域を狭め、その中での真理を証明によって所有するもので、そこで得られる真理は一つとされる――とは明らかに異なる新しい方法がそこにあることを感じ取った。

実は、2016年にコンシュに形而上学に関する対談の可能性を問い合わせたことがある。しかし、それが実現する前に亡くなってしまった。今、コンシュの『形而上学』を訳しているのも何かの縁かもしれない。コンシュのように日本では無名の人の著作を刊行することの難しさについて触れた時、ベストセラーには群がることなく、少ない売り上げの本がほとんどであるというフランスの出版事情のことや、可能性のありそうな出版社のことが話題となった。

最後に、この本の成り立ちについての質問があった。「医学のあゆみ」誌のエッセイをもとにしているが、本を出すことを前提として執筆されたのか、あるいはまた、文章にフランスのモラリスト的な雰囲気が出ているが、それは意識されていたのか。最初の問いに対しては、大体2年くらいを目途に執筆を始めたので、本を出すことは考えておらず、結果的に105回で終わった段階で、その中から今回の大きなテーマに合うエッセイを取り出してランダムに組み合わせたのが『免疫学者のパリ心景』というのが答えになる。ということなので、エッセイの選び方によってテーマの異なる本が数冊できるのではないかというのが、岩永氏の見立てであった。それから第二問については、そのようなことを考えたことはなく、結果的にモラリストの伝統に沿うようなものになっていたのだとすれば、望外の喜びと言えるだろう。


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この本の朗読会は、11月にある秋のシリーズでもカフェフィロPAWLとして取り上げることにいたします

企画は、今回同様、岩永氏にお願いし、詳細は決まり次第この場でお知らせする予定です

皆様の参加をお待ちしております




(まとめ: 2025年3月13日)



参加者からのコメント


◉ 岩永氏にオーガナイズしていただいた『免疫学者のパリ心景』を読む読書会は、会議室の光を落として、参加者が矢倉先生の朗読の声を心静かに受けとめるという環境ですすめられました。もし会議室の外から部外者がその状況を眺めるとすれば、まるでオカルト集団が怪しげな集会を行っているかに見えたかもしれません。しかしそんなこととは根本的に違うのは、朗読のなかからそれぞれの心に浮かび上がってくる想いを互いに交錯させ、それを表現し合うことで自身のなかで考えを練り上げて、自分の考えを拡げていこうとすることです。

矢倉先生ご自身も、朗読をすすめるなかで、ご自身の著書であるのに、よくこんなに多彩な内容を筋道たてて書けたものだという感想を述べておられました。まさにそこに矢倉先生の「生き方としての哲学」が表出したのものであり、それこそが哲学の普遍性ではないのかと思った次第です。貴重な時間を持てたことを感謝いたします。

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