13-PAWL 『免疫学者のパリ心景』を読む vol. 2



第13回カフェフィロ PAWL のお知らせ

ポスター


日時: 2025年11月12日(水)18:00~20:30


テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を読む vol. 2

     ――この旅で出会った哲学者とその哲学


ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)

ゲスト: 矢倉英隆


会場: 恵比寿カルフール B会議室


参加費: 一般:1,500円、学生:500円

(コーヒー/紅茶が付きます)


カフェの内容

  

 今回も前回に引き続き『免疫学者のパリ心景』(医歯薬出版、2022)を読みながら、何人かの哲学者について考えるカフェとすることにいたしました。企画とファシリテーターは、本書の編集者である医歯薬出版の岩永勇二氏にお願いしました。参加希望の方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。 

矢倉英隆


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『免疫学者のパリ心景』を読む vol. 2 

――この旅で出会った哲学者とその哲学 

                    

 「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭い (rendez-vous) だけだ」

        ――本書の巻頭エピグラフより


初回に引きつづき、今回も著者である矢倉先生に朗読をお願いし、著者の「声と身体」を媒介にしたライブ感に富む読書体験となることを期待したい。

目をつむりながらでも読むことができるのは、朗読会の醍醐味と言えるが、前回の朗読の際に私が感じたことは、著者ではなくあたかも書物それ自体が語っているかのように聞こえるという驚愕の経験であった。書物とはまさに精神と物質の統一体であり、この両者がぶつかり溶け合った容器だと改めて気付いた次第である。

さて今回は哲学者篇からの朗読である。哲学へ踏み出した著者の静かで力強い,真水のような透き通った「心景」が随所に感じ取れる箇所だと確信する。 

今宵のまた再びの読み直し、語り直しの体験が本書との予想もしていなかったような 、思いがけない“約束された出遭い”となることを願って――。



【朗読予定ページ】

第2章 この旅で出会った哲学者とその哲学

 ● ハイデッガー、あるいは死に向かう生物としての人間(pp.67-73)

 ● ディオゲネスという異形の哲学者(pp.92-99)

 ● エピクテトスとマルクス・アウレリウス、あるいは現代に生きるストア哲学(pp.107-113)

 ● COLUMN 2 二つの闇の間の閃光(pp.154-155)

                     


カフェの内容





今回は、拙著『免疫学者のパリ心景』の読書会2回目であった。初めてではないかと思うが、参加申し込みされた5名のうち4名の方が欠席された。そのため、ファシリテーターの岩永氏を含めた鼎談という形になり、より自由な動きがあるインプロヴィゼーションに満ちた語り合いになったのではないだろうか。

プログラムでは、ハイデッガー(1889-1976)、ディオゲネス(412?-323 BC)、エピクテトス(c. 50-c. 135)、マルクス・アウレリウス(121-180)を読むことになっていたが、ハイデッガーの代わりにエピクロス(341-270 BC)が取り上げられた。当時の哲学者を読むと、実に多彩な哲学を展開しているのに気づく。これはキリスト教が優勢になる以前の状態にあったため、生まれた時から一つの意味を与えられるという精神に箍が嵌められることなく思索できたためではないかと考察する人もいる。同時に、今回取り上げたいずれの哲学者にも、体制あるいはその時代において大勢を占める考えに対する反順応(アンチコンフォーミスト)の姿勢が見て取れる。真理の探究が哲学の中心になる営みであり、そのためには日常すなわち社会から離れなければならないのだとすれば、それはある意味で必然の帰結なのかもしれない。逆に言えば、どこかにその精神が宿っていなければ真の哲学とは言えないのかもしれない。日常や肉体を離れて精神の中における活動に集中するという彼らの中に、「精神の高貴さ」が見られるという発言もあった。現代社会ではなかなか聞く機会がない言葉であるが、そのような精神の状態が求められていない現状の反映なのかもしれない。

朗読した哲学者順に、話題になったことを思い出しながら書き出すというスタイルでまとめることにした。まずエピクテトスだが、その名前を知った2008年のエピソードが出てくる。これは余りにも鮮烈だったので、今回の『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも取り上げた。パリのアパルトマンの修理に来た青年がこの哲学者について語り、いつもエピクテトスの弟子がまとめた『提要』を持ち歩いて日常的に利用していることを知り、哲学が生活の中に溶け込んでいる文化を感じたのである。

エピクテトスをはじめとするストア派哲学は日本でも人気とのことであった。この派の最も重要だと思われる教えは、我々の力の内にあるものと我々の力の内にないものを峻別することである。我々がコントロールできるのは、我々の精神に関するものだけで、それ以外のこと――例えば、健康、富、他人の意見、社会的地位、名誉など――は我々に依存していない。したがって、他者や外部に支配されていることを手に入れることができると錯覚すると、その結果に心が乱れることになる。この原理を知り、それを実践できているとすれば、世の中の苦しみや悲しみの大半は消えると思われるがそうはなっていない。街に出て、耳に入ってくる話を聞いていると一目瞭然である。ストア哲学を実践することの重要性は、いくら強調してもし過ぎることはないであろう。

同じストア派の流れにあるローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、「バルザックやプルーストが書くのを止めた歳から書き始めた」という言葉をフランスの雑誌で読み、秘かに気に入っていた。わたしが5年間滞在したトゥールで生まれたバルザックは、人が寝静まった夜中から仕事を始め、街が目覚める頃に仕事を止めたと言われている。そして疲れ果て、51歳でこの世を去っている。仕事をし過ぎて死んだ作家は彼くらいではないかと言う人もいるくらいである。そしてマルクス・アウレリウスはバルザックが死んだ年齢から書き始めたという言葉を読み、人が仕事を辞めた後から仕事を始めるというのも面白そうだと思ったのだろう。わたしのどこかにその言葉が息づいている。

人によって人生の時間の使われ方にこれほどの違いがあるという結論を引き出したところで、人生、特に仕事をしている時間と仕事を辞めた後の時間の使い方についての議論があった。世間では人生百年時代とも言われているが、どのような時間割で生きていくのか。退職後その人間に社会的なものが何も付いて回らなくなった時、どのように生きていけばよいのか。その答えは古代の哲学がすでに用意していると言えるだろう。一言で言えば、外に対する興味ではなく、内に向かう注意力ではないだろうか。自らの存在の面倒を見る、あるいは自己への配慮と言われるものの中身を理解して、それを実践していくこと。そして、それが実現できた時、外部に依存せず生きていけるわたしが言うところの「内なるモーター」が出来上がる。その時、自然のなかに住処を探す必要はなくなり、自らの内に建設した隠れ家に還るだけでよくなる。どのような外的環境にいようが関係なくなるのである。後で出てくるディオゲネス流に言えば、コスモポリタンになるのである。

次に、そのディオゲネスが読まれた。わたしが科学から哲学に入り、その歴史を見渡して驚いたのは、人間の在り様の多様さであった。これは何でもありではないか、という解放感が襲ってきたのである。科学の領域にいる時には科学者の生き様が意識に上ることは殆どなかったので、その驚きは大きかった。その中でも特にわたしを驚かせたのがシノペのディオゲネスであった。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、彼は貧しく、汚く、粗野で、恥知らず、不遜で、挑戦的で、犬のように生き、すべての権威、社会的な名誉や風潮に抗するところがあっただけではなく、近親相姦、人肉嗜食などの社会的タブーを認めなかったという。

彼が属する犬儒派の哲学の特徴は、以下のようにまとめることができるだろう。第1に、自己充足と節約があり、この世への拘りを捨てた簡素な生活を理想とした。第2に、理論的な探求ではなく日常の実践を通して徳に至る「徳に至る最短の道」を目指した。第3に、自然と普遍性を重視し、人工的なもの、文化的なものを誤りとし、公の人工性、不自然さ、欺瞞を暴き、モデルを動物界に求めた。真に共通の場でありうるのは普遍的な都市であり、自然であると考えたのである。そして第4に、彼らが創り出した「コスモポリタニズム」という概念があり、社会的な徳を超えた普遍的な徳の下に生きる世界市民、宇宙市民を目指したことである。さらに付け加えるとすれば、ミシェル・フーコー(1926-1984)が詳細に論じた「パレーシア」(率直な語り)がある。これはアレクサンドロス大王(356-323 BC)との出会いに象徴される恐れを知らない語り、危険に陥ることを覚悟の勇気を伴う語りであり、現代においても考えなければならない重要な問題になるだろう。

このセクションの最後に、パリのメトロでのディオゲネスとの遭遇の描写があるが、これは寓話ではなく実際に起こったことである。わたしの中にある思いが強い場合、それが現実世界に現われることがこれまでに何度かあったが、これはその一つである。もう一つの例で今思い出すのは、ボルドー大学を訪問した際に現われたデカルトの樹の逆転を思わせる彫刻である。デカルトの樹では形而上学が根に当たるが、目に見えないところに形而上学を置くのではなく、太陽のように上から照らすようにしなければならないと考えていたところだったので、その彫刻を見た時に声を上げて驚いたのであった。

最後にエピクロスが読まれた。ここでは、誹謗中傷され続けた魂の医者としての哲学者という側面が描かれている。「エピキュリアン」という言葉を聞いて普通に浮かんでくるのは、酒池肉林を思わせる快の追求を主義とする人たちだが、実は科学的ともいえる分析の後に生き方を決め、推奨していたことが明らかになる。彼らは快を最大限にすることを中心に据えるヘドニストとは異なり、快や欲望そのものは否定しないが、欲望の向かう先を選ばなければならないとした。彼らは次のように考えたのである。

人間の欲望には自然なものと無益なものがあり、自然な欲望には幸福になるために必須なものとそうでないものがある。無益な欲望の中には、富、栄光、名誉、不死などがあり、自然な欲望には性的享楽などもあるが必須ではないと考えた。自然で必須な欲望に従うことこそがエピクロスの言う快楽の追求であった。ここで求められたのは、精神的な悩みや心配事のない平静(アタラキシア)と身体的苦痛のない状態(アポニア)である。つまり、ネガティブな快がない状態であったのである。この点が、時に意図的に捻じ曲げられて伝えられた可能性がある。

そしてエピクロスは、すべての人を哲学に誘っている。わたし自身も哲学に誘われ、そしてエピクロスがそうであったように魂の医者を目指そうかという気持ちにもなっている。そのような願望をお持ちの方もおられた。わたしが今訳しているマルセル・コンシュ(1922-2022)もエピキュリアンであると自認している。二千数百年前の哲学者が現代に生きていることが分る。

これはメモになるが、ある文章についての質問に対して答える中で、エミール・シオラン(1911-1995)の名前を出したところ、話が盛り上がったように感じた。ルーマニアからパリに出て、カルチエラタンの屋根裏部屋に居を構え、終生考え続けた哲学者で、わたしにも縁を感じる出来事があった。この哲学者の文章をどこかのカフェで読んでみるのも面白いのではないか。そんな考えが一瞬よぎる今回のカフェPAWLであった。





(2025年11月14日)



参加者からのコメント


◉ 挫折やコンプレックス、人間関係の悩みに苛まれ生きづらさを感じていた思春期、心の奥底に「コポコポと小さく湧くきれいな泉」があることに気付いた。以来、「これが枯れるまでは自分は大丈夫」と自己肯定の象徴として今日まで湧き続けているこの泉は、先生がいうところの私の「内なるモーター」ではないかと腑に落ちた。このように、先生の本を読むことやカフェでの語らいは、日常で感じる違和感や希望のような抽象的なものが言語化され顕在化していく悦びを堪能できる至上のひとときとなっている。

今回の中では他に、エピクテトスの解釈からの「ガイア理論」・「内なる自然」・「すなお」(天草地方の方言である「のさる」=いいことも悪いことも、自分の今あるすべての境遇は、天からの授かりものとして受け入れる、という言葉が思い浮かんだ)が自分の中にあるものの発見につながった。また、エピクロスの「幸せに至る四つの処方箋」は私の「内なるモーター」にさらなる推進力を与えてくれるもののように感じた。このモーターに導かれ「エピキュリアン」そして「魂の医者」を目指し研鑽していきたい。

エピクロスの節のエピソードにある「Carpe diem」について、私は「今を生きろ」と意訳し座右の銘の一つとしている。この言葉をフランスに向けて旅立つ先生に贈った方がシオランの研究者だったとうかがい、シオランのニヒリズムとこの言葉が対極にあるようで一瞬不思議に感じた。が、すぐにとても納得するような感覚となった。納得する理由をうまく言葉にできない自分がもどかしい。

今後の先生のシオラン解釈の会を楽しみにしています。その際に、今回残念ながら時間がとれなかったハイデッガーを併せてもおもしろいかもと感じました。


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