11-PAWL 「スピノザ: 知性改善」


第11回カフェフィロPAWLのお知らせ



日 時: 2024年3月12日(火) 18:00~20:30

テーマ: スピノザと共に「知性改善」を考える

話題提供者: 矢倉英隆(サイファイ研究所ISHE)

会 場: 恵比寿カルフール B会議室




会 費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


カフェの内容

数年前になりますが、80年以上前に哲学者の下村寅太郎(1902-1995)が、我々も自らの「知性改善論」を構想してはどうかという提案をしていたことを知りました。スピノザ(1632-1677)が亡くなった年に出版された未完の書『知性改善論』のことが頭にあったのではないかと思います。スピノザがやったように知性をどのように使えば正しい認識に至るのかを各自が再構築しなければ、まともな国にはならないというのが下村の心だったのではないかと想像します。
今回はその呼び掛けに応え、この世界の真理を知るためにはどのような「精神の構え」をもって認識に向かわなければならないのかについて、スピノザを参照しながら探ることにいたします。真の認識は我々に幸福をもたらすという考え方は、長い哲学の歴史が教えているところでもあります。「知性改善」と幸福との関係についても議論が広がることを期待しております。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

参加希望者は she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。

 

会のまとめ




今回のカフェは、80年以上前の哲学者下村寅太郎(1902-1995)の次の言葉に触発される形で開催された。

我々自身の課題として改めて我々の知性を反省すべきである。我々の知性は、少なくとも傾向的には、植物的であったのではないか。受容的である、柔軟性をもつ、繊細である、而も強靭性もある。・・・今日でも我々の知識人の知識は専ら文学であって、科学ではない。これも植物的性情といふ外ない。

その上で、哲学者も「知性改善論」を構想すべきではないかと呼び掛けている。我々もスピノザ(1632-1677)がやったように、知性をどのように使えば正しい認識に至るのかを再構築すべく、今回のPAWLを開くことにした。テクストは『知性改善論』(畠中尚志訳、岩波文庫、1931;改訳 1968)を用いた。副題は、「知性の改善に関する、並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文」となっている。

スピノザは、人生で起こるすべては空虚で無価値なことを知ってしまった。そこで、我々が関与できる真実の善、ひとたび獲得したならば、不断最高の喜びを永遠に享受できるようなものの探究を決心する。ここで「我々が関与できる」というのは、ストア派の哲学者エピクテトス(c. 50-c. 135)の言う「我々の力の及ぶ(我々に依存する)」対象のことであると理解した。その上でこの世の中を観察し、普通の人は「富」「名誉」「快楽」を最高善として生きていると判断する。しかし、「富」「名誉」「快楽」が真実の善であれば問題ないが、そうでないとすれば、別の真実の善がもたらすであろう幸福を失わなければならなくなる。

スピノザの場合はどうだったのだろうか。真実の善あるいは最高善なるものについて考えている間だけは、上記の欲望から離れることができたという。そして人間は、自分より力強い優れた本性(=完全性)を獲得することを不可能だとは考えていないと見る。その上で、真実の善をその本性に至るすべての手段とし、最高善をその本性を出来る限り他者と共に享受することだとする。

スピノザの求める本性(完全性)は、精神と全自然との合一性の認識であり、その認識を他の人と共有するように努力することが幸福につながるというのが、スピノザの哲学になる。そのためには、自然の理解だけでは不十分で、個人を超えた社会の諸条件が満たされなければ他者との共有もできないことになる。そして、「完全性への到達」 という目的達成のために必要なすべての学問を動員しなければならないともいう。

スピノザは知覚様式として以下の4つを挙げ、それぞれについて検討している。

(1)聞き覚え、慣習的記号(伝統や合意に基づく文=共通感覚)から得られる知覚(誕生日、両親の名前や特徴など): これは事物の本質には辿り着かないので、確実性からは排除すべき。

(2)漠然とした、知性によって規定されない経験から得られる知覚(将来死ぬとか、水は火を消すなど): これもその偶有性(付帯性)しか知覚できず、偶有性は本質が明らかにならないと理解できないので、確実性からは排除すべき。

(3)事物の本質が他の事物から結論される場合の知覚(同一物体でも遠くにあれば小さく見えることから、太陽は見えているよりずっと大きいことを知るなど): 事物の観念を捉えることはできるが、我々の求める完全性は獲得できないので、排除すべき。

(4)本質のみによって、または最も近い原因の認識によって知覚される場合の知覚: 本質を把握し、かつ誤謬の危険がないので、これを最善の知覚様式とすべきである。

スピノザが最善の知覚様式だと判断する際の基準とした「確実性」とは、一体何を言っているのだろうか。確実性とは、「想念的本質」(ものが思惟内容として存在する場合)そのものだという。確実性はまた、「形相的本質」と呼ばれるもの――これは、デカルト、スピノザにおいては、ものが現実に存在する場合を指す――を感受する様式の中にある。したがって、事物の妥当な観念、すなわち「想念的本質」を持つ人のみが確実性を知っていると言えるだろう。

ここで、「事物の想念的本質=真の観念=真理そのもの」という式が成立する。スピノザにとっての正しい認識方法とは、真の観念を他の諸知覚から区別し、真の観念の本性を探究し、真の観念がいかなるものであるかを理解すること、その真理を適当な順序で求める道にあるという。その際の方法は、反省的認識(観念の観念)である。リフレクションは重要な精神運動であることは個人的にも気づき、これまで実践してきたつもりである。

最近、現代人の心的空間が減少し、対象と距離を取って考えたり、新しいアイディアを生み出すことができなくなっているという指摘を見かけた。これは自由な時間の中で省察(リフレクション)することがなくなっているからではないかと考えられる。重要な問題なので、今後改めて考えてもよいだろう。

このような営みの中で、精神が理解することが多くなると、理解を容易にする道具(=観念)も増えることになる。自然を理解することが増えれば増えるだけ、自らを理解し、導くことができるようになり、無益なものから遠ざけるようになる。このような相乗効果が表れ、この世界についての認識がどんどん深まっていくことが想像できる。

最後に、永遠なる事物を認識する手段が紹介されている。我々の得たすべての知覚が秩序づけられ、合一されることが求められる。そのためには、万物の原因であって、その「想念的本質」が我々のあらゆる観念の原因でもあるようなものが存在するのかを探究する必要がある。そして、我々の一切の観念は自然的事物(=実在的有)から導き出すことが求められる。科学が重要だと言えるだろうか。そこから原因の系列に従って、一つの実在的有から他の実在的有へと歩を進めることが重要である。

短い論文であったが、まだ消化不良の感覚がある。ただ、大きな方向性に関してはそれほど違和感を覚えることはなかった。それは、わたし自身が考え、発表してきた「知性改善論」とでも言うべきもの(「方法序説」とも言えるのだが)の骨子と驚くほどよく重なっていたからである。そのため、スピノザの知性の力を簡単に了解してしまったようである。

ディスカッションで出された疑問の一つに、大部分の人が送っている日常生活には満足せず、「真理」を求める精神生活に入る理由は何なのか、哲学者と非哲学者を分けるものは何なのかということがあった。突き詰めれば、所謂日常生活の中には人生をかけるだけの価値が見出せないというところに行き着くのだろうか。最高の喜びが永遠に続く状態になるための道を探究する中に、すでに充足感があるのかもしれない。それは永遠の喜びに至らなくても、それを補って余りあるものをもたらしてくれるのだろうか。

それから、目には見えない世界の中に何かが存在しているという確信がどうして得られるのかという疑問も出された。スピノザの求める完全性に「精神と全自然との合一性の認識」があったが、これはどういう状態なのだろうか。ストア派の哲学にも見られるように記憶しているし、このような言葉は最近よく聞くようにもなっている。しかし、その内実はどのように説明されるのだろうか。説明できるのだろうか。いずれにせよ、合一性を目指すには自然についての理解を深め、自己の内面を具に観察しなければならない。そしてそれは、目的地を度外視しても重要なことになるのではないだろうか。その過程において、科学と哲学が不可欠であることは言うまでもない。




(まとめ: 2024年3月13日)


参加者からのコメント


◉ お世話になっております。今回も楽しく考えることができました。いろいろと考えさせられたので感想をお送りします。今回、自分がポイントだと思う点は三つあります。

① まず、人はどのように哲学の道に入るのか、という議論がありました。これは言い換えると、我々はいかにして世俗的な欲望よりも真理とか永遠なるもの求め、あるいはそれを考えることに幸せを覚えるのか、その条件を問うていると考えられます。これに関しては、心理的な説明が考えられます。つまり世俗的な欲望では満たされない類の人間が、哲学の徒となります。私自身もそうですが、レジャーランドで遊んだ帰りにどうも気分が晴れない、あるいは、友達と飲んでいるふとした瞬間に自己嫌悪し憂鬱になり、このモヤモヤが他のあらゆる娯楽にもつきまといます。そうすると、自分がそのために生き、そのために死んでもいいと思えるような絶対的な何かを希求します。言い換えると、自分の喜びを条件づけている何か、自分の喜びの基礎となるような真理を求め始めます。このようにして真理探究の徒となる人もいると考えます。もちろん、これですべてが説明できる訳ではありません。議論にも出てきた、神学的土壌ですとか、地理的要因も十分に考えられます。

② 二つ目は、哲学的言説の中にしぶとく生き残っている神学的用語・概念について考えさせられました。例えば、事物の「本質」と「偶有性(付帯性)」は、もともとは神学の用語、すなわち神の「実体(essentia/existentia)」と「属性(attribute)」から発していると思います。また「絶対性」「主体性(agent)」「能動性」「永遠性」「無原因性」といった諸概念を目にする度に、どうしてもその背後に神学の存在を看取してしまいます。神学自体にネガティブな印象はありませんが、私達が無意識に使っている単語の起源を知っておくことはそれなりに有用です。「能動性」や「主体性」について考える際、それが神学でどのように使われてきた、あるいはどういう意図によって作られたかについても視点を広げたいです。

③ 最後の点は、カントとの相違点についてです。議論の中でも述べましたが、しかし自分にとって真新しかったのは、むしろ自分がカントの強い影響下にいることを自覚できた点です。『知性改善論』においては「知性はある事物を絶対的に知覚する」とか「真理そのもの=事物の想念的本質=真の観念」とありますように、知性への絶対の信頼が見て取れます。私見ですが、このような、人間が物事を見て、考えたことそれ自体が真であるとするパースペクティヴに異を唱えたのがカントです。カントは、人が物事を認識し理解する際の形式を考察しました。例えば、人間の知覚は必ず時間・空間のもとで行われる、といった風です。しかし、だからといって私はカントのほうが進んでいるとか、正しいとは特に考えません。むしろ、スピノザとカントが食い違うことによって、カントがこのように説明したことでむしろ隠蔽されてしまった何かを、スピノザの知性信仰は指し示しているのだと考えます。更にスピノザについて知りたいと思いました。


◉ 先日はカフェフィロPAWLありがとうございました。今回の講座で印象に強く残った言葉が2つありました。

①「(スピノザが)人間は、自分より力強い優れた本性(=完全性)を獲得することを不可能だとは考えていない」

人間存在の可能性を示唆するものとして私の耳に響きました。この言葉に触れたとき、「私にも、私以上の力強い優れた本性を獲得することができるのだろうか?」と鼓舞されるような気持になりました。

②「精神と全自然との合一性の認識」を他人と共有するよう努力することが幸福

この言葉も印象的でした。たとえば「美しさ」という目に見えないものを具現化していく営みを、大自然も(例えば貝殻をうみだし)、人間も(例えば建築物を造り)、為しているのだと考えると、人間存在も貝殻も建築物も一続きに連なっているように感じられました。ただそれは、直観したとしても他者と共有するのは難しい? だからこそ、その努力をすることが幸福なんだよとスピノザは言っているのでしょうか。

スピノザは「知性」を、諸行無常の世に生きる人類救命のための絶対必要なアイテム、として考えていたのかな、と思いました。参加者のご意見として「スピノザの論述スタイルの切迫性」を挙げていましたが、それを念頭にスピノザを読解しようと思います。

また次回の会、よろしくお願いいたします。


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