3-PAWL 「エピクテトス」




第3回カフェフィロPAWL


案内ポスター

2016年3月8日(火)、 18:20~20:00

「エピクテトスの人生と哲学」



一般: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます) 
学生: 無料(飲み物代は別になります)  

終了後、参加者の懇親を兼ねた会を予定しています。 
参加希望の方はshe.yakura@gmail.comまでお知らせ下さい。

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昨年はパリの新聞社の襲撃に始まり、パリの一般市民を狙ったテロで終りました。同様のテロは世界各地で行われています。21世紀はわれわれの日常に戦争が入り込む時代になる予感がします。換言すれば、いつどこで死が訪れるか分からない時代ということになります。しかし、それはこの生が持つ本来の特質ではないでしょうか。その中で、われわれはどう生きればよいのでしょうか。死が意識される時、人類が蓄積してきた生き方に関わる哲学が目に入ってきます。
カフェフィロPAWLでは長い間劣勢にあった「生き方としての哲学」を展開した哲学者の歩みを振り返りながら、そこで問題にされたテーマをわれわれ自身に引き付けて考え、語り合うことを中心に据えています。このような営みの中で、人間存在そのものに対する理解を深め、われわれの生き方に新しい風を吹き込み、自らが深化、変容することができれば素晴らしいと考えています。
今回は古代ギリシャの哲学者エピクテトス(c. 55–c. 135)を取り上げます。奴隷から身を起こした彼は著作を残してはいませんが、弟子のアッリアノスが『人生談義』(全2冊、岩波書店)として師の言葉を記録しています。ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(121-180)に引き継がれ、パスカル(1623-1662)も論じた哲学の大きな枠組みを講師が30分ほど話した後、約1時間に亘って参加者の皆様に考えを展開していただき、懇親会においても継続する予定です。興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

(2016年1月2日)

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会の纏め

三回目となる今回は、ストア派後期の哲学者エピクテトス(50-135/140)の哲学を取り上げることにした。この哲学者には個人的な思い入れがある。その存在を知ったのは、フランスに渡って一年ほど経った頃ではなかったかと思う。バスタブが水漏れしたと思い修理を頼んだ。そこに現れた若いフランス人が、本や資料で乱れた室内を見て「作家ですか?」と訊いてきた。哲学の大学院生だと答えると、さらに「エピクテット(Epictète)を知っているか?」と続けた。勿論知らないと言うと、彼はいつも『マニュエル・デピクテットManuel d'Epictète)を持ち歩き、問題に突き当たった時にはエピクテトスの言葉に耳を傾けることにしていると言うのだ。まさに哲学が生きることと直接結びついていることを実感した印象的な経験であった。それから8年後にこのような形でこの哲学者について考える機会が巡ってこようとは、思いもよらなかった。人生とは、実に不思議なものである。
イントロとして、最近意識できたわたしの精神構造の三段階について紹介し、批判を仰いだ。その三段階とは、以下の三つである。最上層は、ほとんどが刺激と反応から成る日常生活での意識があり、そこから隔絶した形でそれぞれが仕事をしている時の意識がある。科学もこの範疇に入り、多くの場合、日常生活と隔絶された意識の世界にある。ここまでは殆どの人が経験する領域だと想像される。しかし、さらに深層に入ると、特定の仕事から離れた「領域を超えた」思考や「人間としての」意識、さらに「生のすべてを支える」ような思索が可能になる領域があり、これはそう意識して開拓しないと広がらないところではないか、と気付いたのである。わたしがフランスに渡ってからは、日常と仕事を構成する上部二層のない生活を長くしていたため、第三層の中に居ざるを得ず、この層を意識できるようになったのではないだろうか。今回、ここを「全的生活」、「思索生活」の層と名付けた。ただ、この領域と仕事の層との間には広くて深い溝があり、必ずしも多くの人がこの領域を確保しているとは限らないのではないかと想像した。そして、この層の存在を意識し、開拓することにより、われわれの生はより豊かなものに変容するのではないかという考えを提示した。
本題に入り、ストア派の哲学の流れを調べてまず驚いたことは、ストア派の教えが500年もの間受け継がれていたという事実である。個人的に名前を知っている哲学者は、この派の創始者ゼノン(335 BC-263 BC)、キケロ(106 BC-43 BC)、セネカ(27 BC-68)、エピクテトスマルクス・アウレリウス(121-180)と五本の指で足りるが、特にマルクス・アウレリウスの『自省録』には響くものがあった。今回、改めて読み直してみて、そこにエピクテトスの影響が色濃く表れていることに驚いた。
エピクテトス哲学の原理とも言えるものは、次のようになるだろうか。まず、この世界にある「もの」を分析し、自分に依存しているもの(支配が及ぶもの)とそうではないものがあるとする。その上で、自分に依存するものにだけ注意を集中せよと言い、それによって心を平静な状態に保ち、幸福になることができると説いている。もし自分が支配できないものを支配できると錯覚してしまうと、その結果に落胆し、心が乱れることになるというのである。世に見られる人生の悩みの多くが、この二つのものを峻別できていないことによるものであることも見えてくる。
エピクテトスの分析を単純化すれば、自分に依存しているのは精神(魂)の活動であり、自分に依存しないものは肉体であり、他者に関わることであり、外部で起こることである。自分や他者の肉体の状態、他人の評判や社会的な地位、富、権力などは自分が支配できないものであると明確に認識できると、それらについて思い悩むことがなくなるという。この中には、子供や伴侶など愛すべき人間の生命も含まれている。理論的には理解できるが、現実にどれだけこの認識を徹底できるのだろうか。ディスカッションでは、コメントにもあるように、この哲学の現代的意味について活発な議論がされていた。
今回の参加者は12名とこれまでよりも多く、名古屋からの参加もあった。それから、これから自らのカフェを立ち上げようという方が3名も参加されていたのは驚きであった。哲学カフェなるものが広がりを見せていることの証左かもしれない。国内のカフェに精通している方のお話では、全国に200程のカフェがあるとのことであった。PAWLがどれだけ参考になるのかは疑問だが、何らかの刺激があったとすれば、幸いである。会の後、コメントにもあるように、建設的な提案をいただいた。今後の会の運営に生かしていきたいと考えている。

参加者からのコメント

今日は初めて矢倉先生の会合に参加させていただきまた。先生のお考えと皆さまの多様なご意見を拝聴でき、私にとっては大変有意義で楽しい時間でした。スライドもお送りいただき有難うございました。今日の主題であるエピクテトスの原理は、人間一人一人の手の内にあるものは自分の意志だけであり、その他のものは手の内には無いということと私は解釈しました。これは現在にも通じる普遍的な真理のように思いました。矢倉先生の哲学を人生に引きつけて自在な角度から捉えていくという姿勢は、哲学に無縁だった私にとって、とても素直に受け入れやすいものでした。     
提案ですが、例えば毎回の主題についてすこし時間を置いて、再度、議論をする場があってもいいように思いました。今日のテーマの議論で、私の頭に浮かんできた疑問は、2000年前にエピクテトスがどのようにしてこのような境地に達し得たのか、現在の我々は精神的に本当に進化しているのだろうか、内面の進化とはどのようなことであろうかというようなことです。今回参加された皆さまから、議論を通じてそれぞれの感想とご意見がコメントとして矢倉先生に返信されることかと思います。これを取りまとめた形でテーマを再設定していただくと、議論が深化(進化?)して、時代を超えてそれぞれの人生に引きつけた哲学として、少なくとも私はそうなのですが、捉えることができるのかな、と素人考えですが思いました。貴重なお時間を使って議論の場を作っていただきましたこと、感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。

昨日は誠にありがとうございました。エピクテトスの考え方、皆様方のご意見もたいへん興味深く、また勉強になりました。またぜひ参加させていただければ幸甚でございます。今後とも、なにとぞよろしくお願い申し上げます。取り急ぎ、お礼までにて失礼いたします。      

昨夜は、ありがとうございました。予定調和的な議論では、本質的な実りがないと考え、あえて、根本的なことを問題にしました。ひとつは、エピクテトスの哲学の現代的な意義。彼の哲学は、フクシマ原発事故で避難している人々や辺野古の基地建設反対運動をしている人々、日本社会で差別を受けている人々、毎週金曜日、官邸前で原発反対運動をしている人々。こういう人々に「有効性」を持ち得るのか。持ち得るとすればそれは何か。こうした人々にこそ、歴史のコアは宿っており、こうした歴史的な現実から、思想や哲学や理論は、絶えず問われる、と考えられるからです。      
二つは、エピクテトスの二分法的な考え方について。われわれに属していないものと属しているものの区分があり、属していないものより属しているものをコントロールした方がわれわれは幸福になれるとする考え方。この区分が、エピクテトスの時代とは、現代では、異なってきているのではないかという点です。これは、個人的に、各自がそう感じているというのではなく、社会制度的に、この区分に変更が観られると言いたかったわけです。たとえば、われわれに属さないものとして、エピクテトスは、肉体、財産、他人の評判、権力を上げます。近代では、肉体は個人所有物ととらえられ、医学の対象であり、科学的操作の対象となっています。財産は、私的な所有物とされ(われわれに属し)、法的に保護されています。権力は、民主主義制度に組み込まれ、形式的には、その所有は開かれています。逆に、われわれに従属するものとして、エピクテトスは、価値判断、行動の衝動、欲望、反発(嫌悪)を上げています。ですが、本当にこれらはわれわれに属していると言えるでしょうか。価値判断は、社会や時代に誘導され、むしろ、われわれは価値判断させられている。こういう側面が近代以降は強いのではないでしょうか。衝動も欲望もしかりです。反発(嫌悪)さえ、社会的に作られている。こうして観てくると、エピクテトスは、古代社会ならではの哲学者であると言えると思います。現代のわれわれが、彼から何を学ぶべきなのか、彼の思想のどこがいまも有効なのか。引き続き、こうした点から、エピクテトスを含むストア派の人々に関心を寄せたいと思います。      
これは、ひとつの提案ですが、議論の際に、まったくのフリーディスカッションもいいと思いますが、矢倉さんの方で、テーマに対する切り口を何点か示していただけると噛み合うことが多くなるのではないでしょうか。

エピクテトスという思想家と矢倉先生の出会いのエピソードが印象に残りました。フランスのお住まいの水道修理に来た男性が、ポケットに忍ばせていた一冊。その彼が、いつも何かあるたびにエピクテトスの言葉を参照すると聞いたことが、矢倉先生とエピクテトスの出会いだった、というお話でした。エピクテトスの言葉のどの部分が彼にそうさせたのでしょうね。興味深いです。21世紀の今日とエピクテトスの時代・社会と比較すると、あらゆるもの(生命、財産等)の定義や解釈が異なりますが、とはいうものの、エピクテトスの言葉をごく単純に読むと納得のいく部分もある。エピクテトスは「自我」の有りようを説く人と私は受け取りました。なので、目の前の諸問題を解決するべく社会参加を説くサルトル型の思考枠だと、「そんなストア派みたいな考え方ではこの世は何も解決・進展しないではないか」という意見が出てくるのかもしれません。また反対に、権力者がエピクテトス的な思考を「悪用」して民に流布するなら、人々の物事の変革の気持ちを骨抜きにして、権力者にとってはまことに都合の良い状態になりかねないと思いました。

このたびはカフェフィロPAWLにご招待くださり、誠にありがとうございました。これまで哲学について本格的な議論を行ったことがなかったため、非常に勉強になりました。「肉体すら自己の権内に属さない」とするエピクテトスの考えも、元奴隷という彼の経歴や時代背景に影響を受けているという阿戸先生のご意見が印象的でした。個人的には、エピクテトスの教えは諦めを美徳とするものではなく、「人事を尽くして天命を待つ」というニュアンスに近いと感じました。矢倉先生が引き合いに出された琴奨菊のお話もそれに通ずる部分があるように思えます。参加者の方々の中でその点に食い違いがあったため、議論が平行線となった場面が見受けられました。昨夜の会は色々なことを考えるきっかけとなり、とても貴重な時間を過ごすことができました。またの機会を心よりお待ち申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。まずは御礼まで、失礼いたします。

先日(8日)はカフェフィロに参加でき、いい時間を持てました。サイファイ・カフェSHEは小生にはちょっとバリアーが高いようです。今回の論点の肝は「人のコントロールが効くものと効かないものとの境界」ということでしょうか。あまり安直に「効かない」に傾斜することは「運命を切り開く」や「環境に打ち勝つ」という人間の歴史との関係性はどうなるのか。反対に「効く」に傾斜すれば人間の不遜さも気になってきます。最近の世界はテロや自然災害に象徴されるようにこの問題を鋭く突きつけてきます。タイムリーな問題提起だったと思います。次回を楽しみにしています。

本日、#3PAWLと#9SHEの纏めを拝見しました。二つの会合に参加させていただき矢倉先生の纏めを拝見して、改めて以下のような感想を持ちました。
  矢倉先生が、#3PAWLの議論の前段で、パリでの水道修理屋とエピクテトスとの関わりから、今回のテーマをエピクトテスにしたというお話、そして仏検とDALFの比較から見えてくる日本人とフランス人の思考方法の違いについての感想からは、昔、若い時に読んだ「思索と経験をめぐって」 (森有正著)の経験について書かれた話を想い出しました。森氏の経験についての考え方は私にとって目からウロコが落ちる思いでした。日本語の構造から生じる主体のあいまいさが思索や思想に大きな影響を及ぼしている。日本人が経験と言っているものは、一人の人間を定義するものではない。つねに相手が含まれてしまう。フランスの中等教育におけるアナリーズ・グラマティカルとそれに引き続くアナリーズ・ロジックを例にあげ、フランス語にはある問題を必ず文章の形でつかまえて、判断を求める習慣がある。それに較べ、日本語は物事を単語でとらえることが多く、構造的に主体の曖昧さが存在する。これがフランス語と日本語の大きな相違である。ひいては、この相違が原因して、思索とそこから生じる思想に大きな影響を及ぼしている、という森氏の考え方でした。この本を読んだときに、言葉と思考の大切さを意識したように思います。パリでの水道修理屋さんとエピクトテスとの関わりも、フランス語教育における思考の重視も共に納得できる話として伺っておりました。
  エピクテトスについての議論で人間は精神的に進化したのだろうかという感想をコメントいたしまた。進化とはもともと生物学的な言葉で、生物の形質が世代を経て変化することであり、拡大的に発展するとか発達するというような意味でも使われますが、本来は変化の意ですね。しかし、私が言いたかったのは進歩のニュアンスだったと纏めを読みながらそう思いました。エピクテトスの思想を現代的な意味において考えるとき、はたしてその有効性があるのだろうかというご意見もありました。私は、むしろ現代においてこそ意味を持つ事柄が数多く含まれているように思いました。エピクテトスの思想の普遍性とは、どのような思索の姿勢から生まれてきたかを感じとることが、今回の議論から生じた私の課題となりました。
  コントの実証主義と宗教との関連については、この両者を、さらにはコントの人生そのものをよく知らずにコメントできることではなかったのですが、対象をよく知ることも私の課題です。矢倉先生の前段のお話から判断して、私は直観的なことを口にしましたが、それは、コントが人間の弱さという面にどのような思考を傾けたかという疑問が浮かんだからでした。神の存在を前提とする宗教が、今日でも存在をつづける大きな理由の一つが、人間の弱さを直視するところにあると思われるからです。ただ、コントの唱えた愛、秩序、進歩の宗教的思想は、宗教というより社会科学的な思想として、将来復活する要素が含まれているような気がします。コントの実証主義と宗教についてすこし勉強してみたいと思いました。以上、いろいろな事を考えるきっかけとなりました。有難うございました。

エピクテトスが紀元50年代生まれだとすれば、ローマ帝国が大きく揺らいだネロ帝による粛清、ネロ暗殺でのアウグスティヌス=クラウディウス朝の終焉と、3皇帝が1年間で生まれては消えたローマ内戦を人間形成に重要な10代に経験したに違いない。そのなかで、権勢を誇った人間が、次の瞬間に国家の敵と断罪され、消えていく姿を目にすることも多かっただろう。自身の人生もまた、奴隷として生まれ、哲学を学んで解放され、パトロンとなった皇帝は暗殺され、後の皇帝ドミティアヌスの哲学者追放によりローマを追われ、その後皇帝ハドリアヌスが教えを請う、という、波乱に満ちたものであった。この世で永続して欲しいと思う事柄は失われる、にもかかわらずそれらを求めて失う苦しさを心の底から体得したに違いない。その中で、ただ一つ自らの拠り所になるものはなにか、誰にも奪われることない自分自身の精神に他ならない。しかし、この世界、この世界の場所、この歴史時間を選択することはできないのであるから、自分自身がおかれた状況を嘆くのではなく、いかに自分を正しく保ち、その場で生を全うするか。その手段として、「自分に依存している精神(魂)の活動について分析して、こころを平静に保つ」ことがエピクテトスにとって哲学の第一の道であったのだろう。 
この考えは、ノブレス・オブリージュと自己統制を尊ぶ古代ローマ支配者層に(ある一定期)受け入れられたのだと考える。では、(解放)奴隷であるエピクテトスにとって、「正しく精神(魂)の活動を保つ」指標はなんだったのだろうか。私は、エピクテトスにとって、それは、ストア哲学の根本、否ギリシャ哲学の根本である、ソクラテスの生き方であったと考える。自分の知の範囲を自覚し、それを「完成」とするのではなく、不断の努力で発展させていかなければならない、また、自分の生きてきた結果(あるいは不作為だとしても)生じた事象は、自らの責任として受容する。ソクラテス以来の、人間として哲学することがその生を最もよく生きることだ、という考えがその中心につながるのだろう。    
今回エピクテトスの考え方と非常に似た教えが原始仏教にあることが、心地よい驚きであった。仏陀の言葉として伝わる、かなり古いテキストがある。「私には子供がある、私には財産があると(誇りに)思って、愚かなものは(失ってしまうことを)悩む。しかしすでに自分が自分のものではない。どうして子供が自分のものであろうか。どうして財産が自分のものであろうか。」(法句経:ダンマパダ)  財産、自分の身体についてはエピクテトスも説いている通りであるが、仏教では、さらに、自分自身の心も移ろいやすく、外部に影響され変容するから、(そのままでは)自分のものではないと説く。一方仏陀は死に臨んで弟子にこのようにも語っている。「この世で自らを洲とし、自らを拠り所として、他のものをたよりとせず、法を洲とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ」(大般涅槃経)  拠り所とするのは、世界の何者でもなくそれぞれの自分である。 
上記と矛盾するようにもみえるが、何ものにも動かされず、正しく宇宙の真理を見る=生きる自分というものを確立して、 考え、行動せよ。というエピクテトスに共通するメッセージに他ならない。そのため、仏教では、自分=自分の感覚・認識・思考をコントロールする正しい方法を修行として尊重する(七覚支)。日々の努力無くして、正しい思考、正しい行動、正しい生き方はない、と説く。仏陀の弟子に向けた最期の言葉は、「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」(大般涅槃経)  であった。どちらの思想もまさに時代を超えて、人間の生きる道として「生きている」のではないか。どの時代においても、救いが見えない不安や嘆きの中、他の何者かを指差して、それを取り除けば問題が解決するとする誘惑が、危うい道だと認識するためには。


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(2016年3月9日)





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