6-PAWL 「プラトン: パイドン」




第6回カフェフィロPAWLのお知らせ

ポスター


日 時: 2017年10月20日(金) 18:30~20:30

テーマ: プラトンの 『パイドン』 を読む

会 場: ルノアール・飯田橋西口店 2号室



参加費: 一般 1,500円、学生 500円 
飲み物(コーヒー/紅茶)が付きます

 前回、ソクラテスの死の意味について考えましたが、その過程でもう少し議論すべきところがあると感じました。今回はその欠けていた部分を補う意味で、プラトンの『パイドン』を読み直すことに致しました。この副題は「魂(の不死)について」となっています。人類の歴史において常に問題にされてきた心と体の問題をソクラテスやプラトンはどのように考えていたのでしょうか。講師が彼らの考えを紹介した後、参加者の皆様に議論を進めていただきます。今回も始まる前には想像もできなかったような展開を期待したいと思います。
会終了後、懇親の会を予定しています。
興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

(2017年7月28日)



会のまとめ

今回の『パイドン』は前回の『ソクラテスの弁明』に続くもので、刑の執行までの間牢獄に置かれていたソクラテスが迎えた最後の日に起こったことが描かれている。ただ、プラトン自身は病気でその場にいることは叶わなかった。その場に居合わせたパイドンはその時の感情を次のように述懐している。
「親しい人の死に立ち会っているのに悲しい気持ちは起こらなかった。ソクラテスの態度も言葉も幸せそうに見えたからだ。だからと言って、会話が哲学的なものではあったが、哲学している時の愉しい感情も湧かなかった。喜びと苦しみが入り混じった、今までに経験したことのない奇妙な感情に囚われていた」
 ソクラテスは死を人間にとって生より無条件でより善いものであり、我々は神々の奴隷であると考えていた。そして、神々は我々を配慮しているので、その意に反して死ぬこと(自殺)はできないとした。死を言い渡されたソクラテスがそれに従い毒杯を仰ぐことをどのように考えていたのだろうか。この世を支配する神々より賢く善い神々のところ、そしてこの世の人々より優れた死んだ人のもと(ハデスの国)に行くという希望を持っていたようである。
ソクラテスの考える哲学者像が最初に紹介されている。「真理」や「知恵」の獲得には思考を必要としているが、肉体の感覚が齎すものは世界の見かけ上の像に過ぎず、また肉体を介する快楽、恐怖、争いは真に考えることを阻害し、哲学するゆとりを失わせるので、できるだけ肉体から離れ、魂の方へ重点を置くようにしている。つまり、肉体を最も侮蔑し、肉体から逃亡し、自分自身の魂だけになり、「そのもの」を観ようとしている。このような態度で生きている人が哲学者であり、このやり方はすべての 「もの・こと」 の本質(ousia)の探究にとって重要になる。とすれば、死ななければ真実には辿り着かないことになる。死によって魂は肉体と分離するからである。つまり、哲学者とは、死人同然に生きる人ということになる。
プラトンの中に、知覚される世界と感知できない世界の乖離がある。前者は見せかけの世界であり、動いていて「成る」世界であるのに対して、後者は普遍的な形(相)がある世界、あるいはイデアの世界とも言えるだろう。有名な洞窟のアレゴリーには、我々の感覚は縛られたものであり、そこで捉えられる世界は真の姿の影絵にしか過ぎないという寓意が込められている。そこから、真理に至るには感覚によってではなく、感知できない世界を観ることができる魂の働きによらなければならないことが導き出される。
それから霊魂の不滅について、ソクラテスとケベス、シミアスとの議論が始まる。「生成の循環的構造」による証明のところでは、生と死が分断されたものではなく、生は徐々に死の要素を増やすもので、死は生の要素を徐々に増やすものと捉えていることが分かる。つまり、生と死は連続した流れの部分を構成しているに過ぎないことになる。また、「想起説」による証明では、後に経験論(タブラ・ラーサ)と対立する生得論の元になる考え方(inneism)を使って論を進めている。我々は経験する前から、個々の事物とは異なる、例えば「大きさ」、「小ささ」というような概念(形相、エイドス⇒イデア)を持っている。それがなければ、何も学んでいないのに大小の判断をすることができない。もしそうであれば、生まれる前から魂はそれを獲得していなければならないと考えるのである。
「魂とイデアの親近性」による証明では、次のようなことが言われている。合成的なものは解体し、非合成的なものは解体しない。肉体は前者で、魂は後者である。非合成的なものは自己同一を保つものだが、自己同一を保たないのが合成的である。そして最後に、「イデア論」による証明が出てくる。「反対の性質を排除する原則」に則り、あっという間に証明が終わってしまう。ソクラテスとケベスの話は、こんな具合である。
「身体に何が生じると生きたものになるか?」 
--「魂が生ずると」
「正義を受け入れないものは?」 ーー「不正義」
   「音楽性を受け入れないものは?」 
         --「非音楽的なもの」
「死を受け入れないものは?」--「不死なるもの」
「魂は死を受け入れないのか?」ーー「受け入れない」
「すなわち、魂は不死なるものだ」
終わりの方に出てくる「神話」の中で、プラトンは次のような言葉をソクラテスに吐かせている。「もし魂が不死であるならば、我々が生と呼んでいるこの時間のためだけではなく、未来永劫のために魂の世話をしなければならない。魂がハデスの国に携えて行くものは、この生で獲得した教養と性格だけである」と。霊魂の不滅を信じるか否かにかかわらず、この生のうちに魂の面倒を見ておくことで失われるものはあるだろうか? ないと言いたいところだが、プラトンによれば肉体が失われることになりそうである。しかし、それでもやるべきだというのがわたしの立場になる。


François Boucher, La mort de Socrate (esquisse en grisaille, 1762)


参加者からのコメント

● 昨日は有難うございました。特にパイドンという素晴らしい作品を読む機会をいただき感謝しております。読後、魂が浄化されるような作品でした。プラトンのイデア説は西洋哲学の背骨をなす考え方であり、それに触れることができたのも貴重な経験でした。私の関心は認識論にありますので発言も会の趣旨とは多少異なっていたかとは思いますが、その点はお許しください。また機会がありましたら参加いたしたく存じます。取り急ぎ御礼まで。

 

● 昨日は「パイドンを読む」という貴重な機会を設定いただき有難うございました。PDFの資料もお送りいただき、重ねて厚く御礼申し上げます。ソクラテスは心身二元論を、神、ハデス、イデアを議論の余地のない「前提」として論理を展開しているので、ためらいなく死を選択したのだと思います。ためらいのない姿勢が周囲の哲学者や後世の人々に大きな影響を与えたように思います。今日的な視点から、当時のこの「前提」の是非を批評することや、 現在の科学的な見地から、二元論と一元論を比較し一元論の優位性を論じたりすることはあまり意味のないことのように思いました。
前回のソクラテスの死のときにもパイドンを読んでみたのですが、善く生きるためには哲学が必要という考えは普遍性を持って今日の私達にも語りかけてきますし、肉体の感覚からできるだけ離れ思索するという方法も今日まで世界のいたるところで続けられてきています。もし、偉大な哲学者ソクラテスとプラトンが現在に居たとしたら、二人はどのような議論を展開してくれるのかと想像するだけで楽しくなります。いつも貴重な題材をご提供くださいましてありがとうございます。

 

● 矢倉先生が「霊魂不滅の真偽に興味がない」と書かれているのを読んでホッとしました(笑)。ソクラテスの生き方に倣いたいというのは同感だが、魂の不死を前提とするなら、彼の動機は不純になる。ソクラテスはそのような人であったか? むしろソクラテスは弟子を慰めるために、また弟子の悲嘆ぶりにぐらつきそうになる自分を励ますために、霊魂不滅の「神話」を持ち出し、愛のある「詭弁」で弟子たちを説得したのではなかろうか。ソクラテスに倣いたい一方、彼岸を否定し、肉体、生に重きを置く別の哲学者の思想にも強く魅かれる。
以上が、『パイドン』を巡る議論の感想ですが、当日最も印象づけられたこと―― それは、哲学の世界では、還元主義とホ―リズムの対立は普通のこととして存在しますが、現代の科学者はみな還元主義者だと思っていたので(笑)、会場で科学者の間でも哲学の場合と同じ構図が見られたことでした。

 

● 魂の肉体からの完全分離、魂の不死は、会とその後の懇親会を通して最も論議を呼ぶ(物議を呼ぶ?)テーマとなりました。生存中での魂の肉体からの逃亡・分離についても同様に解決のつかない争点です。仮にそれを瞑想か修行を通して達成できた場合、「もの・こと」の本質に分け入ることができるのか? そもそも肉体という容器や足場がない"魂そのもの"はメタファーにすぎないのはという ご意見もありました。また、魂(精神)は肉体(身体)と不可分に結びついているというのが、むしろ最近の科学的知見でさえあります(例えば、神経・内分泌・免疫系関連の研究等)。従って、少なくとも死後の世界ではなく現世では、肉体を消去する方向ではなく、魂(精神)をより自由にするような(悪としてでない)肉体(身体)の状態を追求するといった方向があるのではないかと考えたりしています。

 

● 先生はリープマンという昔の神経心理学者(昔はそのようには呼ばれないでしょうが)をご存知ですか? この方、失行という概念を提出し、我々の分野では重要な貢献をされた方です。リープマンはユダヤ教徒であって、公的にはあまり恵まれた方とは言えませんでした。しかもパーキンソン病に罹って、最後は服毒自殺されたということです。この方について、ある本が次のようなエピソードを記しています。リープマンは服毒後、一時意識が戻った。そのとき妻にプラトンの「パイドン」を読むように告げたという。
矢倉先生が「パイドン」の勉強会をすると伺ったとき、このことを思い出し、参加しようと思いました。 パイドンを読むようにと言ったリープマンの伝えたかったことは何なのかがわかればと思った次第です。本当のところ、それをはっきりはわかりませんでしたが、このパイドンが示す、魂が不滅であって肉体はほろんでもずっと魂が伝わっていくということと関係があると思います。リープマンはそれを死に臨んでわかったのでしょうか。もしこの勉強会でプラトンを取り上げる時には、ぜひ「イデア」ということを掘り下げて学べるといいと思っております。


フォトギャラリー





今回はカフェでの撮影を完全に失念していました。
そのため懇親会だけの写真掲載となってしまいました。
懇親会には4名の方が欠席されたので、9名の参加がありました。
また、新しい方が3名(内、1名は北海道から)参加されました。
お忙しい週末の夜に参加された皆様に改めて感謝いたします。


(2017年10月21日)







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