1-PAWL 「ディオゲネス」


シノぺのディオゲネス

第1回 カフェフィロ PAWL
 
The First Cafe Philo PAWL  (Philosophy As a Way of Life)

  
テーマ: 「ディオゲネスという生き方」
第1回PAWLは現 トルコ北部、黒海沿岸の町シノぺに生まれた古代ギリシャの犬儒派哲学者ディオゲネス(412 BC?-323 BC)を取り上げます。コスモポリタンを自認するディオゲネスの常軌を逸したかに見える生き様とその背後にある哲学について講師が30分ほど紹介した後、 約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。
日時: 2014年3月28日(金) 18:20~20:00
会場: カルフール C会議室
Carrefour

第1回 PAWL は無事に終了いたしました。
ご協力ありがとうございました。

**************************************************


まず、年度末のお忙しい中、参加いただいた皆様に感謝いたします。

初回のテーマとして、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスを取り上げた。なぜこの辺縁の哲学者を取り上げたのかについて考えてみた。現代の枠組みの中にいると、その生き様は常軌を逸しているように見える。しかし、本当にそうなのだろうか。実はわれわれの方が多くのものに囚われ、自由が奪われた状態にあることに気付いていないのではないか。文明の中にいるわれわれは多様に絡み合った枠組みの中にいる。最初から枠組みの中にいると、そこで進行していることの本当の姿が見えてこない。社会の流れを外から観るという視点がなければ、大きな流れに異議申し立てをすることもできない。これは哲学の持つ大きな機能であるはずだ。そのことを教えてくれる哲学者である。

それから彼は社会的秩序を超えて自由にものを言うこと(parrhesia)を実践した人間でもある。この営みは思想と行動の一致を要求する。そのため、その人間を危険に陥れることになる。日本に帰ってきていつも感じるのは、自由にものを言うということが抑制されているということである。言論空間が澄み切っていない、突き抜けていないように感じるのだ。そのような状況では 「もの・こと」 の核心に至るのが難しい。そのため、本当の姿を見ないまま「もの・こと」がどんどん先に進むのである。そのことを指摘し、その流れに抗する動きをすることを促す意味もあったように思う。

カフェの名前であるPAWLは生き方としての哲学(Philosophy As a Way of Life)の頭文字である。しかし、この言葉には別の意味もある。それは、一方向に進むための装置であるラチェットのツメという意味である。歯止めの役割を担っている。より広く解釈し直すと、正の方向に進むことに対するフィードバックという含みも見えてくる。さらに、社会の大きな流れに抗する機能を持っているとも言える。上でも述べたように、これこそ哲学がやるべきことである。その意味でも、含蓄のある名前になったと考えている。

これは蛇足だが、この会のテーマとしてディオゲネスを選んだ後、このようなエピソードがあった。
彼の哲学を見直す中で、自分の中に多くのディオゲネス的なものがあることに気付いた。若い時には難しかったが、囚われのなくなった今、それがよく見えるようになっている。それが、無意識のうちに彼を初回の主役に選ばせたのではないかと想像している。
次回も刺激的な哲学者を選び、そのエッセンスを現代に引き付けて考える予定にしています。これからもご理解とご支援をよろしくお願いいたします。今回、イントロ部分の動画撮影をしてみました。ご批判をいただければ幸いです。


  
(2014年3月29日まとめ)

2014年9月4日: 会に参加された尾内達也様からディオゲネスに触発されて書かれた詩的断章 「アキネトン セレネース」 が送られてきました。こちらからご鑑賞いただければ幸いです。

参加者から届いたコメント

● 本日はお世話様でした。ディオゲネスについての哲学は大変興味深く帰りの新幹線の中で自分なりに色々考えてしまいました。昨日からブログを書いていなかったのですが、久々の哲学を学び、ディオゲネス的な側面は、もしかしたら、誰の中にも存在するのではないか?と・・・帰りの新幹線に揺られながら考えていました。

物質的な満足による幸福や権威、名誉などに対する欲望と相反するデイオゲネス的な思考は一人の人間の内部で闘っているような気がしました。わたし自身の中では、権威的なものに拒否感を感じることもしばしばですが、そういったものの中に対する憧れ的な感情も否定できないところがあるのです。例えば、無人島で一人暮らしをするのと、お城で優雅に暮らすのとどちらを選びますか?と言われたら、わたしは、お城で暮らすことを選ぶに違いありません。無人島で一人で暮らすくらいの孤独に打ち勝つ勇気があれば、そこに凄さを感じます。

ディオゲネス的な要素は、犬のように、と言うたとえもありましたが、犬も社会的な動物です。何者かとのコミュニケーションを必要とします。ディオゲネスを哲学者として考えると、現実の社会体制に追従する庶民の無能さ、権力の背後にある支配的な制度、強い者が弱い者を支配し、物質的な豊かさや精神的な幸福を享受しているさま、社会的地位や権力のある者たちに対して、何も持たない者たち弱者が感じる不公平や、理不尽に対する怒りを、自分の身体を裸に晒し、土管の中で生活している姿を巷の人々に見せ、「この世界や社会の在り方の真実は一体何なのだ?」と訴えた・・・のではないか?と・・。

権力者によって作られた社会システムや金持ちが作ったコミュニティ、哲学はそのアテネイの時代には政治的なものと絡めて体制が作られていたのではないかと思われ、真の哲学、真の人間とは本来如何なるものか? を、アンチテーゼとして、政治体制に怒りの象徴として、自らを飾るものと権威をを排除し民衆に、問いかけた・・・のではないか? と・・・感じました。それは、結構現代にも通じるところがありますね・・。いつの時代にもあるような気がします。

ディオゲネスが身体を通して、実践したものは、人間の本質と真実の美とは何か? ということだったに他ならないと思えました。その実践は、ブッダの考えに通じるものだと思えました。自分の身体を究極まで痛めつけ、蔑まれることも厭わず、楽に楽しく生きることを拒否した方向性を選びます。普通の人間にはとても出来ないことですよね。ボクシングで痛い目に遭うのとは、全然違いますから。その苦しい一見、恥さらしな実践は、究極は、自らの幸福に繋がっている・・・のではないか? と言う気がしました。ディオゲネスは、実践の先に、生まれてきてから付いてしまった人間の欲望のもろもろを、削り取って自分自身を彫刻した・・・・という・・・そんな感じでしょうか?

矢倉先生の、本当に価値のある、ディオゲネスについてのお話は、久々に、わたし自身にも、余分に付着した苔のようなものを削り、少しだけ、深く削ることが出来たように思えます。本日は、本当に感謝です。ありがとうございました~

● 第1回カフェフィロ PAWLに参加させていただいたものです。とても勉強になり、いろいろな話し合いができてとても有意義な会でした。また参加させてもらいたいと思います。ありがとうございました!

● ディオゲネスについて考える機会を持てたことに感謝いたします。自明だと思っていることに、根源的な疑義を差し挟み、それを行動に移すことは大変に勇気のいることです。しかし、それをしなくてはならないときもあります。3.11後の今がちょうどそうです。われわれの生活は、原発問題だけではなく、秘密保護法や集団的自衛権といった戦争へ向かう問題、TPPといった差別的なグローバリゼーションの完成といったように、大変危機的な状況にあるからです。

ディオゲネスをはじめとした、異議申し立ての系譜は、個人の生き方を重視するので、「個」に閉じこもる危険性もあります。しかし、今や、「市場」と無関係に生きられる人はだれもいません、隠者でさえも。その意味では、ディオゲネスの「勇気」をいかに、個人的なものから社会的なものへ媒介するかが、が問われているように感じました。

ディオゲネス自身、個に徹することなく、人間を探すという社会的実践をしたことを思うと、理論と実践の問題は、もともと、一体として存在していたと考える方が自然で、現在のように、この二つの距離が離れている方が不自然で、そこから、多くの問題も生じているように思いました。ソクラテスにしても、舟を知っていると言うときの「知っている」という言葉は、舟の作り方を知っているという意味で、使っていたことを思うと、こと、理論と実践に関しては、ソクラテスも「狂気のソクラテス」も、意見の一致を観たのではないでしょうか。

●先日はカフェフィロPAWLに参加させていただきありがとうございました。ディオゲネスの生き方について、フーコーによる「自らを彫刻し続ける」という評価や、「普通の方法(前提目的手段)を根本から疑う人」という説明が印象的でした。出席者のどなたかが指摘されたように、現代で言えば、まさにロック・ミュージシャンでしょうか。
犬儒派が探求した「徳」とは何か、という疑問は解けないままなのですが、Wikipediaなどに当たってみると、どうやらソクラテスにとっても「徳とは何か」は重要問題だったようなので、そう簡単には言語化できない(しかし、経験を通じて直感はできる)人生の究極の目標「x」としておいた方が良いような気がしてきました。むしろ重要なのは、「x」を探求し続けることにあるのでしょう。それを自由な発言や常識にとらわれない行動で実践したので、ディオゲネスはプラトンに「狂ったソクラテス」と評されたのかもしれませんね。哲学者の「生き方」に焦点を当てたPAWLの今後の展開が楽しみです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
● 28日金曜日のカフェフィロ PAWLの会、今回もお邪魔させていただき、まことにありがとうございました。常識を疑うこと、自らの生の土台をいったん崩して思考することが哲学であるならば、いっさいの共同体を拒否したディオゲネスはまさに哲学者と呼ぶにふさわしい人物だと感じました。ディオゲネスの生き方を想像するなかでいちばん興味を持ったのは、あらゆる組織、コミュニティとは隔絶されたところで「徳」を確立させることはできるのかということです。とくに個人主義が弱い日本では、社会のため、会社のため、家族のため…と自らの外部にそれを求めることが当然のこと、褒められることとされます。今回の会では、自分もしらずしらずのうちにそういう教育・社会の空気にひたって生きてきたなと感じました。では、自らに深く向き合うことで見いだすことのできる徳とは何なのか。正気をたもちながらそれを続けることはできるのか。もう少し考えてみたいと思います。今週末も参加させていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします。

●記念すべき第一回PAWL生き方としての哲学カフェ)に参加させていただき感謝です。神託を「社会通念を変えよ」と理解したディオゲネスが、彼自身の生き方そのものを通じて、それを実践したお話でした。お話を聞けば聞くほど「彼は実は実在した人間ではないのではないか」「理想を仮託した偶像なのではないか」とさえ思えました。
社会・文明は、古今東西、常にシステムを作りあげ、それらを支えるモノの見方・考え方などを作り、人間を順応させ統治していきます。ところが、ディオゲネスは樽を家とする自給自足的な生活を送り、服装も裸同然ですごすなど、社会の仕組みや価値観を真っ向から否定する生き方を貫いていました。弾圧された様子も無いのですが、もしも、ディオゲネス的人物が社会の中で一定数以上の勢力になれば、統治者からすると従順ならざる危険人物で、それこそソクラテスのように刑死させられたかもしれませんね。むしろ個人を貫いて、「ディオゲネス党」を作らなかった(そんなことできなかった)ことによって、かえって彼の本質が、後の世に継承されたようにも思えます。それは、19世紀の多くの芸術家たちが、ディオゲネスを絵画作品として残していることとも無関係ではないように思います。ディオゲネス的な生き方は、人間心理の深いところで、憧れを抱かれるものなのかもしれません。「カンテラを下げて真実を探す隠者」のイメージは、起源不詳の占いであるタロットカードの図柄にもあり、案外ディオゲネスとつながっているのかもしれません。ニーチェの「ツァラトゥストラ」もカンテラをもって神を探していますよね。
今回の議論の最後の方で、「社会的立場を離れた自由な発言の場が無い日本」「社会生活の場でそのような発言場所が無い」という言葉がありました。ディオゲネスが探していた人間、すなわち権威も名誉も社会風潮もフラットにしたところに生まれる自由の境地に生きる「人間」として、建前を取り払ったコミュニケーションを、PAWLが創造できるといいなあ、と祈念しつつ参加を続けたいと思います。

●「人間として生きることは哲学をすること=実践哲学」 ソフィストの弁論術にソクラテスの哲学が対比できる。論理の巧みさによってギリシャ民主社会で政治力や経済力を獲得し、欲望を充足させていく。このソフィストの提示した人間の生き方に対して、 ソクラテスは人間として正しく知り良く生きることが人間のアレテーであるとして 良く生きることを求めていく。ではその生き方をするための正しい知とは何か。社会で賢人といわれる人、自分を含めて、正しい知を持っているものはいない! それに気づいて正しい知をもとめていく。長い伝統や確立した習慣でも疑義があれば厳密に検証して最善の生を追求する。そのためなら生物学的な命がなくなることも是とする。この「ソクラテスの生き方」をどのように実践していくか、これがディオゲネスにおける哲学だったのだろう。
ソクラテスの生き方に近づき、ソクラテスの精神を継承するため、生きるということ自体が哲学でなければならない。哲学とは生きることである。思索や論理や知識ではなく、実践できないものは哲学ではない。すなわち、社会の秩序や風習を全て吟味し、実際に検証していく。様々な受け入れがたいエピソードすべてをディオゲネスが最善としたとは考えられない。が、彼は、思索を通じて検証するのではなく、実践しながら検証したのではないか。そして、これらの行為が生物学的な「盲目的意志」に 振り回されないように、心身をコントロールすることが求められる。
この考え方、及び実践は仏教の瑜伽派と通ずる物がある。実践なくして悟りなし。言葉のみでは不十分で、生命の活動、実在の体験を通じてでなければ、真理(=法)を見ることはできない。 言い換えれば、真理を知るだけで別世界への道が開かれるのではなく、あるがままの娑婆世界でしか真理を見いだすことはできない。これが後の密教につながっていく。
ディオゲネスは古代ギリシャが衰退に向かう難しい時代だからこそ、ソクラテス的生き方を躊躇なく実践していった。現代においてはどうだろうか。我々は衰退に面しているのだろうか。その際に、当たり前と思われている社会通念(国家、法、制度、習慣、義務、権利など)や科学的事実と思われている通説を批判的に吟味して、強い心身を持って実践していく。虚無主義でも逃避でも単なるアンチテーゼでも決してない。ディオゲネスが常にこのように行動できたかどうかはわからないが、強烈な意思と行動力は常に彼の傍らにあったのだろう。困難に立ち向かうたびに勇気づけられる。

  フォトギャラリー







Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire