4-PAWL 「アリストテレス」




第4回カフェフィロPAWLは盛会のうちに終了いたしました。

参加された皆様に感謝いたします。

次回は2017年春~夏の開催を予定しております。

ご理解、ご協力をよろしくお願いいたします。

(2016年11月21日)


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第4回カフェフィロPAWL
 

案内ポスター

2016年11月11日(金)
18:30~20:30

 

「アリストテレスが考えた善き人生」
 

ルノアール ・ 飯田橋西口店

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今回は、後世の倫理学に大きな影響を与えたアリストテレス(384 BC – 322 BC)の考え方を検討します。『ニコマコス倫理学』の快楽と真の幸福を論じた部分を紐解きながら、彼が考えた善き人生、幸せな人生に焦点を合わせます。そこから現代に生きるわれわれのヒントになることを見出すことができるでしょうか。  

これまでの会の議論が尻切れトンボになりがちだったことを考慮に入れ、今回は時間を少しだけ長く取ることのできる会場を選びました。最初に講師が大きな枠組みを40-50分話した後、残りの時間で参加者の皆様に考えを展開していただき、懇親会においても継続する予定です。興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

(2016年8月21日)



会の纏め

今回、ディスカッションの時間が長く取れる会場で第4回PAWLを開催した。当日2名の方の都合が悪くなり欠席となったが、SHEの第1回と第2回に参加された方の4年振りのカムバックがあったり、山形から参加された院生もおられ、興味深い構成となった。これまでより30分ほど余裕ができたのでゆったりできたのではないかと思う。これも個人的な印象になるが、最初は会場がやや狭いとも思ったが、その分お互いに話をしやすくなったようにも見えた。新しい会場についての感想を参加者の皆様に伺った上で、これからの予定を考えることにしたい。

今回も始まる前にサイファイ研究所ISHEのミッションと活動について紹介させていただいた。会のテーマは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で問題にした人間が生きる上での最高善とは何かであった。換言すれば、人はどう生きるべきかということで、まさにPAWLが考えて行こうとしているテーマになる。今回、アリストテレスの声を聴きながら、予想もしていなかった幾つかの発見をした。

冒頭に、何かを行う時に向かうところのもの、すなわち目的が善であり、いろいろな活動において見られる目的の中でもすべてを統合するものが最高善だとある。これはどういう意味なのだろうか。アリストテレスは究極であるための条件を次のように考えていた。一つはそのものだけのために追及する価値のあるもので、別の目的のために追求するのではないものである。もう一つは、それを得れば他には何もいらないという意味で、自己充足的であること。但し、自分自身だけではなく、広く言えば社会や国にまでそれが及ばなければならないと考えていた。人間は社会的動物と言った人らしい。

この条件を見て思い出したのが、以前に取り上げたことがある藤澤令夫氏のまとめによるエネルゲイアとキネ―シスとの対比であった。エネルゲイアは目的が行為の中にあり、それを行った時には「こと」は完了していて完全であるのに対し、キネ―シスは他のものが目的なので常に未完に終わるというものである。

エネルゲイアをわれわれの生に取り込む (2010.1.2)

当時は仕事を辞めてフランスにいたため、エネルゲイアの状態が深い充足感を齎してくれることを身を持って体験していたのだが、仕事をしている時にはその意味がよく分からなかったのではないかと思いながら読んだところになる。実はそれが究極の善の一つの基準になっていたのである。

アリストテレスはさらに人間の機能とは何か?と探索を進める。ここでいう機能とは、人間に本来的に具わる他の生物とは異なるものであるが、それは理性を伴う魂の活動であると結論している。そして、その活動を善く行うことが卓越性であると言っている。その機能を発揮させること、すなわち哲学すること、しかもそれを生涯を通じて行うことが人間の善ということになる。観想(観照)活動はそれだけのためのものであり、観ること(テオリア)だけが求められるという意味で、究極性と自己充足性という条件も満たしている。

最も善きもの、最も快適なものは、その存在にとって本性的で固有なものである。とすれば、精神生活を全うすることが最高善であり、それは同時に幸福を齎すことになる。幸福を表す言葉「エウダイモニア」には、神に祝福された状態という意味がある。ダイモーンが神と人間との仲介者を意味するので、それが良い(エウ)状態が幸福になるということだろう。つまり、知的活動だけを生涯に及び続けるということは、神に祝福された状態にあり、人間を超えた「神的生活」とも言えるものになるのだろう。ただ、人間はそんなことはできないのが普通である。そこで問題になるのが、古くから言われている精神生活と動的生活のバランスになる。その問題を解決するのはそれぞれの人に任されているのだろう。そこでも哲学する必要が生まれることになる。





参加者からのコメント


● 昨日はありがとうございました。スライドも届いています。今回のお話、この時期に伺えてよかったです。取り急ぎ、お礼申します。

● 昨日は充実した時間を過ごさせていただきありがとうございました。普段ではなかなかできない会話に非常に学ぶところが多かったです。幸福は生涯をかけて得て行くもの、ということを参加者の皆様とのディスカッションから知ることができたと思います。またお話に加われることを楽しみにしています。

● 昨日はありがとうございました。久しぶりに私の普段眠っている脳の部分を活性化することができました。物事を観想するだけでなく、その結果をいかに現実生活、社会と結びつけていくか、参加していくか、が一番の問題ではないか、と思いました。アリストテレス的考えに基づけば、今回のトランプの当選のような現象はどのように解釈されるのでしょうか。彼の最高善とする形との間のギャップはどうすれば埋めることができるのでしょうか。いろいろ考えさせられます。

● 一昨日は大変に有意義な場を設定いただきありがとうございました。また、早速会合の資料をお送りいただきありがとうございました。

今回は、アリストテレスのニコマコス倫理学の「幸福」に焦点をあて、現代の我々がどのようにこのテーマを捉えてみるかという議論でした。矢倉先生そして皆さまのいろいろなご意見をとても興味深く拝聴しました。情報化のすすんだ現代社会では、我々の幸福の捉え方は多様化しているのだと思います。幸福を得るための大切な要因に、精神活動と動的活動のバランスが挙げられています。しかし、不断にこのことを意識しないと、両者のバランスを取ることは難しい社会であると思います。今回のテーマを考えるにあたって、すぐに私の頭に浮かんだことは、現代人は何に価値を置いて行動しているのだろうかということでした。現代は、個人の精神活動は動的活動の影に隠れてしまっているように見えたからです。人はそれぞれに自分の中に醸成された価値観に基づいて、意識してあるいは無意識のうちに、自分の目的を設定しそして行動して、その価値観を満足させるように生きているように思われます。ある価値が満足されるときに幸福感が得られるが、その価値が普遍的なものでなければやがてその幸福感は消失してしまうということは、古代からの変わらぬ事実なのでしょう。価値と倫理について考えるよい機会になりました。 
    
「全体と部分」、これは諸々の問題の共通項であるように思いました。例えば、今回のディスカッションで、科学の進展は哲学の変容に影響を与えているかという話題がありました。物事の全体像を捉えようとする哲学は、全体の一部である科学の進展により、その全体像が変化するものであり、事実、変化をしてきたと思います。ただ、今の私には、そもそも全体というものが存在するものなのか、また哲学が捉える全体像と科学がそこに占める位置がどのようなもので、どのように変化していくものかは、思考の限界を超えています。  
 
 「幸福」についても、個人と社会という関係つまり全体と部分は、不可分な関係であると思います。幸福とは心身ともに健康であることというご意見もありました。これは幸福への一つのしっくりくる解釈ですね。個人に価値を生じさせるものは外界からの刺激(情報を含む)なのでしょうが、この精神領域も将来的には科学の現実的なターゲットになってくるような気がします。 哲学が個人と社会によい刺激を与え続けるものであればいいと思いました。  

ありがとうございました。それでは、11月18日を楽しみにしています。


金曜日はみなさんと久し振りにお会いでき、楽しかったです。折からのトランプ現象でアリストテレスを起点に幅広い意見交換があり、少なからぬ脱線が興味深いものとなりました。次回も大いなる脱線に期待しています。会場については2次会も含めて異論はありません。次回を楽しみにしています。 

● 先日は、会の資料と私の質問への資料をお送りいただきありがとうございました。大陸とアメリカの思考の相違について、その特徴だけでなく対立し得るもの同士という点も含めて理解できたように思います。 

参加されたみなさんのコメントがとても興味深かったです。とりわけ、どなたかが寄せた「現代人はどんなことを幸福だと思って生きているのだろう」という部分には強く共感しました。一般に、現代では多様化が進んでいるので幸福のかたちも様々だと言われますが、あまりに多様であるせいか、私は幸福や価値観を誰とも心から共有できないように思われて孤独を感じることがしばしばあります。そのようなときに先程のような疑問が浮かんできます。しかし他者の幸福に自分の幸福をなぞらえても仕方のないことだと思い直し、自分の幸福とは何だっただろうと自省して平静を得るのがいつものパターンです。  

そうしてみると、アリストテレスのいうように最高の幸福とは常に自分と向き合い、哲学しながら生きることだというのはもっともだと納得できますね。他者との共有という観点で、幸福を考えてみるのもおもしろいかもしれないと、新たな視点の発見もできました。 仕事と思索のバランスを、どちらも満足がいくようにとるのは困難かもしれませんが、充実した人生を全うしたいと思うので哲学的に考える癖は今後も残したいと思っています。  

初めての参加でしたが、会場が東京駅からさほど遠くなく、わかりやすい道順で辿り着けるところだったので助かりました。懇親会の会場も雰囲気がよく、お料理も美味しかったです。今後も矢倉さんの活動を興味深く追いかけたいと思っています。また参加できることを楽しみに、それでは。

人間は善を求める動物であると定義される。善を求める人間が複数同時に行動するとき、自由状態では最適化されるとは限らない。最適化を目指す過程が「ポリティーク」である。ポリティークを実行するためには、最高善である「フィロソフィー」が必要である。ゆえに、政治には哲学がなければいけない。この考え方は、時代遅れのものでも、現代に通用しないものでもない。人間が存在する限り人間の行動全てにおいて、検証に耐えうるモデルである。科学を例にあげても応用可能である。科学的に検証された事象は世界内において「真理」ではない。ある外部環境(A1)である条件(B)下ではある現象(C)が認められるとする。科学者はA1<B<Cであることの正確性、再現性を追求することにより、A1<B<Cを科学的事実とする。同様に類似の外部環境(A2)においてA2<B<Cが成立し、反証がない場合、A<B<Cは普遍性をもつ「科学的真理」とされる可能性があるが、A3<B<Dが証明された場合にはA<B<CとA<B<Dどちらが「科学的真理」かコンフリクトが生じる、またはA<B<C, A<B<Dはどちらも普遍性がなく「科学的真理」と見なされないという結論となる。古典的実証主義はコンフリクトが生じるような命題を科学の範疇とはしないという態度によって殻の中に閉じこもって失速した。トーマス・クーンはパラダイムから独立可能な普遍性をもつ「科学的真理」を決定することは不可能と主張した。だとすれば、「科学的事実」のほとんどは「真理」ではなく、その解釈について、いかに最適化をはかっていくか、ということが極めて重要になるのではないか。ここに、「科学的真理は政治である」「科学的真理を求めるためには哲学がなければならない」「科学的真理をみきわめようとするものは、倫理の実践が必要である。」が科学者としてのアリストテレス解釈であることを提唱したい。アリストテレスの倫理学は時代と東西をこえて重要で、かつ共通性の高い概念と考えられる。「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」はブッダが弟子たちに語った最後の言葉であった。


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(2016年11月12日まとめ)





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