10-PAWL 「プラトン: 饗宴」



第10回カフェフィロPAWLのお知らせ



日 時: 2023年11月14日(火) 18:00~20:30

テーマ: プラトンの 『饗宴』と神秘主義

話題提供者: 矢倉英隆(サイファイ研究所ISHE)

会 場: 恵比寿カルフール B会議室




会 費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


カフェの内容

今回は、前回のカフェSHEで話題となったプラトン(427 BC-348 BC)の『饗宴』を読み、登場人物の愛に対する考えを検証する予定です。さらに、プラトン哲学を特徴付けるとされる神秘主義について、井筒俊彦(1914-1993)の『神秘哲学—ギリシアの部』(岩波書店)を参照しながら見直すことにします。そこで展開されている議論を追っていくと、井筒が分析するプラトンのミスティークの真髄とわたしの提唱する「科学の形而上学化」とが驚くほどよく重なることが見えてきます。それはこの世界の認識の仕方、この世界との関わり方、人間の真の生き方と深く関係するものです。これらのテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

参加を希望される方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。


会のまとめ






第10回目になる「生き方としての哲学カフェ PAWL」のタイトルは「プラトンの『饗宴』と神秘主義」とした。具体的には、プラトンの中期対話篇『饗宴』(副題「エロス(愛)について」)を読み、そこから浮き彫りになるものの見方、知の在り方、ひいては人間の生き方に至る問題について議論するのが目的であった。参加予定の方が欠席となり、今日の会は対話篇となった。偶然そうなったわけだが、この形式にはそれなりの良い点があることを確認することになった。話の前半では、悲劇詩人アガトン邸でのエロスについての議論を振り返り、後半ではそこに出てくる発言が意味するところを考えるという構成にした。

まずパイドロスは、エロスは最も古く、最も尊く、徳と幸福を齎す力が最も強いとエロスを讃える。それを聞いたパウサニアスは、エロスが一種類であれば問題ないが、そうでない場合には何を褒めるべきなのか明らかにしなければならないと言う。そして、エロスとアプロディテ(愛・美の神)との不可分性を基に、ウラニア・アプロディテに属するエロスとパンデモス・アプロディテに属するものの二種類があると指摘する。ウラニアのエロスとは、理性に恵まれた方を愛し、放埓とは無縁の愛であるのに対し、パンデモスの方は低俗で、魂よりは肉体を、出来るだけ考えないものを愛する。パウサニアスは、永続性を齎すウラニアの方を素晴らしいエロスであると考えている。

次に、エロスには二種類あるとしたことには感服した医者のエリュクシマコスは、エロスの及ぶ範囲を美少年に対するところから、人間以外の動物、さらには存在すべてにあると主張する。その上で、エロスの中にある、節制と正義をもって我々相互の間だけではなく、我々と神々の間を取り持つ力を賞賛する。

この対話篇の一つのポイントとして、アリストパネスのお話が挙げられるのではないだろうか。それによれば、人間の本来の姿は「男」「女」「男女」(両性具有)で、その容姿は球形、手足は4本、反対に向かう2つの顔、耳は4つ、隠し所 (陰部) は2つというものであった。しかし、人間が神々を攻撃しようとしたため、ゼウスは人間を2つに切断したという。その結果、半身を失った人間は本来の姿を回復しようとするが、そこで見られる「完全なものへの憧憬と追及」に付けられた名前がエロスだったという。

次の発言者アガトンは、賛美というものは対象の性格を明確にし、それが齎すものを詳述することだと言って、エロスとは神々の中で最も幸福で最も若い神で、正義と節制と勇気を持ち、文芸、弓術、医術、さらに生物を生み出す力があると指摘。それを受けたソクラテスとアガトンは、エロスはあるものへの愛であり、それを欠いている時に愛求することに合意する。つまり、エロスが求めるのが善・美であるとすれば、エロス自体には善・美がないことを意味している。

そして、ソクラテスがその昔、ディオティマという女性から聞いたという話を紹介する。これは本対話篇の肝になるもので、プラトン哲学の中心的テーマが語られていると理解される。それによると、エロスは不死なるもの(神)と死すべきもの(人間)の間に立ち、両者の仲介の働きをするダイモンのようなものである。エロスはポロス(豊穣)とぺニア(欠乏)の間に生まれたので、両者の中間にある。困窮もしないが富むこともなく、知に関しても叡智と無知の中間にある者で、まさに「愛智者」(フィロソフォス)なのである。

美や善を手に入れると幸福になるが、エロスはそれを永遠に保持することを目指す。すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠・出産する不死に繋がるものを持っている。肉体の場合は女性に向かい、精神の場合は知恵や徳(特に、国や国家に関する節制と正義)に向かう。そして、前者よりは後者を生み出した者が尊敬される。そのためには、次のような段階を経る必要がある。

最初は美しい肉体に向かい、一つの肉体に認めた美が他の肉体にも存在することに気付く。そこから――昨日の議論の中ではギャップがあるようだとの指摘もあったが――魂の美により貴重なものを見るようになる。さらに進むと、人間の営みに内在する美に気付き、知識の美を観取し、壮大な言論や思想を生み出すようになる。そして最終的に感得するのは、絶対的で抽象的な、永遠の存在する形相を持つもの、プラトンの言うイデアである。そこで初めて、幻ではなく真の徳が生み出され、その生が生きるに値するものになり、その人間は不死となり得るという。

この話をディオティマから聞いたソクラテスは納得し、自分がそこに向けて修業するだけではなく、他の人びとにエロスを崇めるよう伝えたいと宣言する。哲学の普及に向けた覚悟が窺われるお話で、プラトンが唱える哲学の本質を見る思いである。この対話篇は、歴史上も現在も誰にも似ていないソクラテスを賞賛するアルキビアデスの話で終わる。





プラトンの見る世界は、感覚で感知される感性界とそれでは感知できないイデア界に分けられている。後者には理性を介さなければ辿り着けない。最高のイデアをプラトンは「善のイデア」と言う。井筒俊彦は感性界からそこに至る向上道(アナバシス)を「洞窟のアレゴリー」を用いてこう解説する。

第1段階は、洞窟で拘束された囚人が見る影のような感性的世界で満足している無知の境遇である。第2段階では、囚人は解き放たれ上に向かうが、まだ影の世界の方が実在的に見える。そして、第3段階で洞窟の外の太陽の下の世界を識別できるようになると幸福感が訪れ、その感情が洞窟の奥の囚人に向かうようになる。それが彼らに奉仕するための向下道(カタバシス)へと向かわせるのだという。プラトン哲学を理解するとはこれらの道を自ら歩むことであり、それが人間形成の道であり、神秘道だと井筒は言う。

今回取り上げた神秘主義にはいろいろな解釈があるのだと思われる。ここでは、神、神的なもの、究極的な真理が省察を通して観取できるという信念、あるいは神、絶対的なものと一体になることとその時の意識の変容というような意味で考えるが、プラトンの場合には「善のイデア」を体験することを指すのかもしれない。イギリスのプラトン翻訳者であるベンジャミン・ジョウェットは、『饗宴』『パイドロス』『国家』の一部は、神秘主義に共感がなければ本当のところは理解できないとまで言っている。

「線分の比喩」による4段階説も我々の理解を助けてくれる。

   1    2      3       4






左端を洞窟の奥、右端は太陽の下の世界とする。この線上にC点を入れると、A-CとC-Bの領域ができる。前者を感性界(そこでは化見・臆見 doxa がものを言う)、後者を叡智界(そこでは知性 noesis が働く)。さらに、A-Cの中にD点、C-Bの中にE点を置くと、上図のように、1~4の領域ができる。すなわち、

1:洞窟の壁面(憶測や幻影の世界)を見ている。
2:壁面から後ろに目をやるも、自分の考え・信念は生まれるが、客観的な実在には至らない。
3:悟性的認識(仮説から演繹して結論を出す)は可能だが、そこから先の存在の究極には至らない。
4:超知性・純粋思惟の世界で、そこで認識されるのは実在(ousia)である。

第4段階に至った人は「弁証家」(ディアレクティコス)と呼ばれ、真の哲学者とされた。これは後世、神秘家と言われるようになる。その時、3のレベルにいる人も哲学者に入れられるようになり、4は神秘主義者に任されるようになったのである。

プラトンの「弁証法」(ディアレクティケー)は、次のような特徴を持っている。
1)概念の背後に実体としてのイディアが潜んでいると考える。
2)概念を選び、精神を集中することにより、その実体が見えてくる。
3)それを下位のイデア(一次イデア)とし、そこから一段上のイデアに向かう。
4)これを繰り返すことにより、至高のイデア(善のイデア)に到達できる。

これを読んだ時、今から6年前に書いたエッセイのことが蘇ってきた。この方法と非常に似ていると思ったからである。
当時、エッセイを書き始めて5年が経過しており、それまでに書いたものの中に関連して塊を作るもの(上の「一次イデア」に通じる)があることに気付いた。これを続けて行けばそのような塊が増えるだけではなく、それらの中にも更なる塊ができるのではないか、そして最後には唯一の塊が見えてくるかもしれないという感触を得て、「絶対的真理」などという科学者の時代には考えられなかった言葉をタイトルに使ったのである。

今回の話の中では、日常生活、職業生活で使う意識の領域を超えた思索をする第三層を開拓することが、絶対的真理への歩みに欠かせないことについても触れた。それを突き詰めて辿り着いた現在のわたしの考え――すなわち、この第三層の中にある生活が我々を不死に導くものであり、それを充実させるこそが生きる目的ではないか――で話題提供を締めくくった。

*意識の第三層については、以下を参照していただければ幸いです。




(まとめ: 2023年11月15日)




参加者からのコメント


● 本日はカフェフィロ PAWLでのプレゼンテーションとディスカッションを誠にありがとうございました。 "哲学の入門書” と軽く考えていた『饗宴』が、実はプラトンの思想の核心を示す重要な書物だったことを痛感しました。また、ご紹介いただいた井筒俊彦氏の『神秘哲学』の記述により、①プラトンが観想と実践を通じて階段を登る(アナバシス)ように精神の高い境地へと向かい、②頂点からイデア界の全景を俯瞰できた(これを「神秘体験」という)こと、さらに、③至高の境地から現実の世界へ向かう階段を降りて(カタバシス)他の人々が「善のイデア」に到達するための方法論を探究したことーーを知り、プラトン哲学の目指すところがようやく分かってきました。「人間は何のために生きているのか」と思わせられるニュースに日々接するにつけ、二千数百年前の哲人が考え体験したことが、現代においても重要な示唆を与えてくれていることに、改めて思いを巡らせています。









Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire