第14回カフェフィロPAWL
日 時: 2026年3月11日(水)18:00~20:30
テーマ: 『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う
会 場: 恵比寿カルフール B会議室
渋谷区恵比寿4-6-1恵比寿MFビルB1
参加費: 一般:1,500円、学生:500円(コーヒー/紅茶が付きます)
カフェの内容
今回は予定しておりました第3回『免疫学者のパリ心景』朗読会が、ファシリテーター岩永勇二氏の不在のため開催できなくなりました。その代わりにメンバーからの提案を受けて、昨年11月に上梓した『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』(ISHE出版、2025)を題材に、生き方や幸福という問題を中心に語り合う会とすることにいたしました。100ページほどの本ですので予めお読みいただき、話題にしたいことや疑問に思ったことなどをお持ちいただければ幸いです。参加された皆様のテーマに合わせて進行したいと考えております。興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
連絡先: 矢倉英隆 she.yakura@gmail.com
カフェのまとめ
第14回カフェフィロPAWLは、拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』を題材として、そこで展開されている3名の現代フランスの哲学者の考えを解きほぐし、そのエッセンスをわれわれの中に取り込むことによって自らの生を充実させる道を模索するものであった。少なくともそのような目的を思い描いて計画された。1名の方の欠席はあったものの、充実した議論が展開したのではないだろうか。お集まりいただいた皆様にはいつものように御礼申し上げたい。
最初にわたしの方から簡単な説明をした後で、それぞれが抱いている疑問点などを出していただくというやり方で進めることにした。
まず、第1章のピエール・アドー(1922–2010)だが、これまでに何度も書いてきたように、また本書(p. 13–15)でも触れてある通り、2006年暮れのパリの書店で La philosophie comme manière de vivre『生き方としての哲学』というタイトルと出合った。それは、わたしの哲学に対する見方を劇的に変える力を持っていた。最近では翻訳も見かけるようになっているが、当時アドーのことを話題にしている人はほとんどいなかった。
本書で取り上げた言葉の中で、わたしにも響いてきたものを列記すると、まず「哲学への回心」(conversion philosophique)がある。わたしがアドーの著作に出合って哲学的回心をしたように、20代後半のアドーも神学から哲学に回心しているという共通点がある。それから、古代哲学ではよく出てくる「魂の鍛錬」(exercices spirituels)がある。これは、感情的なものや現世的なものから離れ、より理性的に、全体からの視点から考えることができるようになるための鍛錬で、そこには人格や世界観の変容を伴う。その一つに「宇宙的意識」(conscience cosmique)がある。宇宙の一部を構成しているという意識であり、全宇宙的自然に向けて拡張していくような意識である。このような状態になるためには鍛錬しなければならないのである。この章では、「対話することを学ぶ」というところでガダマー(1900–2002)の概念である「地平融合」が紹介されている(本書 p. 28–30)。これは相互理解が難しくなっている現代において改めて注目すべき概念になるだろう。
第2章のマルセル・コンシュ(1922–2022)に関する印象的な言葉を敢えて列記するとすれば、以下のようなものがあるだろう。まず、彼の弟子に当たるアンドレ・コント=スポンヴィル(1952–)が師の哲学に溢れているものとして使った「哲学的快活さ」(alacrité philosophique)がある。思考の明晰さだけではなく、どこか朗らかさを伴う活力を感じる哲学という意味に解釈すれば、それは私が目指しているものとも通じるところがあると感じ、印象に残っている。
コンシュが考える形而上学は、世界(特に、アウシュヴィッツ、ヒロシマ)の子供たちの悲惨を「絶対悪」とするところから始まった無神論的形而上学であり、アナクシマンドロス(c. 610–546 BCE)の「アペイロン」(無限)すなわち「ピュシス」(自然)を背景にして考える形而上学である。その形而上学には唯一の真理、あるいは科学が目指しているような統合された知(仮の真理)は存在しない。なぜなら、彼が考える形而上学は、現実の「全体」とその中にいる人間についての理性による探求であり、「全体」をどう見るのかが哲学者の間で統一されていないことと、哲学には証明がないからである。そこにあるのは一貫性を伴ったその哲学者に固有の哲学で、論証によってお互いを論駁することができず共存する。したがって、それぞれが複数存在する形而上学の中からどれかを選ばなければならない。その時に重要になるのが「生きられた確信」(convictions vécues)である。これは人生を送る中で各人の中で結晶化してきた確信、生きる中に根ざした確信のようなものを指しているのではないだろうか。この見方を突き詰めると、哲学(形而上学)するということは、各人の「生きられた確信」をできるだけ明確なものにすると同時に、それを他者と交錯させ、「地平融合」することによってさらに磨き上げていく過程であると捉えることができるかもしれない。そのための場として、サイファイカフェ/フォーラムにも担う役割がありそうである。
それから、時間の捉え方として「果てしない時間」(temps immense)と「縮小された時間」(temps rétréci)が議論されていた。後者がわれわれの生きている日常の時間であるのに対し、前者は日常が消えた永遠の時間であり、コンシュが言う「自然」の時間である。ほとんどの人が「縮小された時間」を生きており、日常の具体的な問題に心を奪われていると想像される。しかし、そこから離れて永遠の「果てしない時間」の中に入れば、われわれの存在は消えてしまう。と同時に、日常の問題が消失し、精神に良い効果を及ぼす可能性が出てくるだろう。哲学をする場合、日常の中に身を置いて哲学する立場と果てしない自然の時間の中で哲学する立場があるだろう。前者に属するのはヘーゲル(1770–1831)やサルトル(1905–1980)だが、コンシュが目指しているのは後者であり、わたしの立場もそれに近い。
第3章はアラン・バディウ(1937–)の幸福論で、わたしには非常に過激な考え方に見えたが、それゆえ刺激的な力をもって迫ってきた。まず、世に言われる幸福――例えば、日常生活に満足を与える豊富な選択肢、興味深い仕事、かなりいい給料、健康、お互いが成長しているカップル、長い間記憶に残るヴァカンス、感じのいい友人、設備が整った家、快適な車、言うことを聞き気分を鎮めてくれるペット、問題を起こさず学校の成績がよい子供など――は、消費社会における「満足」であり、「真の幸福」とは別物であることが告げられる。
バディウは哲学の欲求を、思考における革命の欲求と捉え、それは真の幸福の追求を目指すものであるという。そこには「反抗」、「論理」、「普遍」、「危険」という4つの次元があり、現代の消費社会は各次元にネガティブな圧力をかけている。具体的には、第一に、現代社会はすでに自由で、改善の余地はないとされているため、反抗がむしろ不適切とされている。第二に、現代のコミュニケーションは論理性と一貫性を欠き、論理的な思考に圧力がかかっている。第三に、現代の普遍性はお金に還元され、断片化と専門化が進行しているため、普遍性は抑制されている。第四に、真の幸福には予測不可能性があるにもかかわらず、現代ではリスクは避けられ、偶然に任せた決定は不適切とされている。
現代の哲学はこの流れに適応しているように見えるが、バディウは次のようは対抗策を提案する。それは、現在の流れを一旦中断して定点を確立すること、そして思考速度を遅くして調査と理論構築にたっぷりとした時間をかけることである。この点には全面的に同意したい。またバディウは、人間を縛っている死や有限性から脱した時にしか人間は実現しないという。その時に幸福を感じるのだということとつながってくる。わたしの言葉で言えば、「時間が消えた時、幸福を感じる」となるだろう。その時、われわれは人間になるのだ、とバディウは言っているのだろうか。
最後に、第4章に出てくる「意識と幸福の三層構造」について取り上げ、求めるべきだとした第3層の意識と幸福が、ストア派が唱えた唯一われわれに依存するもの(=われわれの精神活動)に繋がっていることが見えてきたところで、残念ながら時間切れとなった。
(まとめ: 2026年3月15日)
◉ 「全的観想生活の驚くべき効果か?」(2026年3月16日)
カフェ当日、毎回異なるテーマを取り上げて何年もカフェ/フォーラムを続けているが、いろいろな資料を読んだりしなければならないので大変ではないか、という質問が出されていたことを思い出し、現在の考えをまとめたものです。ご参考までに。
参加者からのコメント
◉ 「出来事」、私がインターネット上で矢倉先生と偶然に出会ったのは10年前、これは私にとっての一つの大きな「出来事」でした。それはこのPAWLを含めISHEでの皆様との議論が、私の思考を広げそこに深みを与えてくれるからです。私に変容をもたらして、「地平融合」の意識も持つことができました。今回、「生き方の哲学」で矢倉先生が取りあげた3人のフランス哲学者、アドー、コンシュ、バディウ、そして彼らの書籍と矢倉先生との偶然の出会いは、矢倉先生にとっての「出来事」だったのであろうと推察してます。そして私が、ISHEのフォーラムとカフェに参加することがなければ、矢倉先生が取りまとめていただいたこの「生き方としての哲学」との本の出会いもなかった訳で、偶然とは実に不思議なものだと思います。私にとっては、この本との出会いもまたよい「出来事」でした。
本書では、3人の哲学者の独自の考え方が提示されています。そこに重要な共通点を見出します。自然・宇宙的意識、真理の回復、主体の変容などです。この共通項が、矢倉先生の「出来事」のフィルターを通過させたのではないかと勝手に想像しています。本文中には印象的な言葉がたくさん散りばめられていて、それらはそれぞれに共感できるものです。私にとって特に印象的だったのは、「テキストに語らせる」、「無限の自然と有限性」、「真理の多義性」、「自分にコントロールできるのは自らの精神活動だけ」、「時間からの解放と定点の確立」そして上述のアラン・バディウの「出来事」です。
バディウは、出来事とは、それによって主体を実行や真理の和解に至らしめるもの、全なるものを超え、揺さぶり、全ならしめないようにするもので、それは新しい創造の可能性であり、この可能性こそが真理である。秩序だった世界――それは安定した政治的・社会的秩序であったり、科学的パラダイムであったりする――に裂け目ができ、そこから真理が顔をだす。これが出来事だといいます。主体にとって真理に出会うとは、出来事に忠実に向き合うことであり、主体とは出来事に意味を与えるものであるとしています。
もう残り時間のほうが少なくなってきた私なのですが、笊で水を掬うかごとき思考なので時間がかかります。それであっても「出来事」には、従前の通りにゆっくりと時間をとり、ゆっくりと思考をすすめてそれに向き合う、これが私にとっての生き方としての哲学ではないかと思った次第です。意識の第3層は、気晴らしが邪魔して、層内からすぐに浮かび上がってしまうのが現状です。
矢倉先生、書籍へのお取り纏めをいただき有難うございました。大変に参考になる本でした。そして貴重な時間を有難うございました。
◉ 一通り読んだものの、あまり読み込めていない状態での参加でした。以下、ざっくりとではありますが感想を述べさせていただきます。
古代哲学から現代哲学まで、その流行り廃りを含めて、私の習ったのとは全く異なる視点で哲学史を俯瞰する思いでした。一見誤解のある言い方になりますが、「魂の鍛錬」に特段新しさを感じませんでした。それはむしろ、生前に発した言葉が格言となって残るようなのちの人だち――B.フランクリンやD.カーネギー、そのほか書店のスピリチュアルや自己啓発の棚に本が並ぶような人たちの軽重の書き物、禅といった「○○道」のなかに、古代哲学の言説がリフレインされていると気づいたからです。
そこから自分も、ささやかではありながら古代哲学的な心と、そして身体のエクササイズを日々実践していたのだとの自負に行き着きました。ただ自分の場合は、それを哲学と分けて考えていました。具体的には、スピリチュアル、自己啓発、ヨガ、自然とともにある生活を、それぞれの分野ごとでとらえていました。それらを哲学の延長として考える、そのこと自体は哲学を勉強する身にとって、生活に一貫性が出てくるのでかえって都合よいと言えます。しかし今まで、哲学、スピリチュアル、自己啓発、身体の鍛錬とケアときっぱり分けて考えてきたものを、都合よく哲学という一本の串で刺すことができるのでしょうか? 今後しばらくはそういった発想で生きてみようとの思いに至りました。
だた私の心身のエクササイズは、あくまで世俗的なこと――日常生活、勉強/研究、仕事を乗り切るためです。そのあたりはアドー、コンシュ、パディウ、そして矢倉先生のめざす境地とは異なります。どうでしょうか、私は現世的過ぎるのでしょうか??? この三方、そして矢倉先生に反駁できるよう今後自己を観察していこうと思います(笑)。
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